
作家なんて今どきそれだけじゃ食っていけない。いや、今どきじゃなくても作家なんて昔から書こうと思ったものだけ書いてたんじゃ食っていけない。なので、どんな作家にもたいてい食っていくためだけの通俗小説、駄作がある。
遠藤周作にも例に漏れずそういった類のものが存在するんだが、遠藤周作の場合はわりと気をつけて意識的にこれは軽いテーマなんですよ、というものを切り分けて発表していった嫌いがある。
「沈黙」や「海と毒薬」に較べると、お涙ちょうだいの「アレ?」と肩透かしを食うような、内容なんですけどね、小説の構成とか文章そのものにも「こりゃスゴイね」とグッとくるものはないです。手を抜いてるわけじゃないんですけども。
今はわりとこういうお涙ちょうだいの読者の同情を誘うようなお話は減ってきたんですが、当時は王道だったんですよね、「可哀そう」って同情引くのが。
まぁ最近そのテのお話がなくなったのも、それはそれでちょっと嫌な世の中だな、とは思うんですけど。
ただ…ひねくれてるのか計算してるのか、たぶん計算してるんでしょうけど、棄てられた可哀そうな女の子にそんなに共感できないんですよ。
貧乏大学生の男が一発やりたいためだけに女の子の体を奪うんですけど、女の子のほうはその男に惚れてしまうんですよ。
ただ見た目から美しくないし、性格も鈍くさくて野暮ったい。
男としてはたんに一発やりたかっただけであって、やってらんね、と男、逃げる、逃げる。
そうこうしてるうちに不潔で素寒貧の貧乏学生も、意外と世渡り上手なのが幸いして、けっこういい会社に潜り込む。そして当時は高度成長の真っ只中、経済的にもそこそこ潤ってきて、キレイで賢い奥さんももらうことに。そこまで来るのにはそれなりに男の狡い計算とか打算とかあったわけですけども。まぁそういうわが身大事の狡さってのは誰にでもあるわけで、そういうのがないとこういう手堅い幸福も得られなかったわけで。
…一発やられて棄てられた女は、世渡りヘタでどんどん転がり落ちて風俗業へ。それでもまだ男のことを想ってる。それが心の支えだったわけで、男が結婚するのも知らない。
一方男は結婚するまでは婚約者にやらせてもらえず、世間の目も気になるわけで、性的な欲求から、ふと女を思い出し捨てた女にもう一度接近する。…で、だましてもう一度捨てようと思ってるんですよね。
しかし会ったときにちょうど女にハンセン病が発覚し、当時はハンセン病はもう不治の病で容姿も崩れていく恐ろしい病だったんですよ。
可哀そうどころか、もう過酷すぎます。
行きずりに体を奪われただけということも知らず男を思い続ける不治の病の女の子、というだけならただお涙ちょうだいで見るべきものはないんですけど、…男は、今度は棄てた女に棄てられてしまう。なぜかは理由もわかっている。打算と狡猾さで手堅い幸福を手に入れた男、それを捨てる気は毛頭ないのだけど、男の中の何かが、ふと変わる。
もしこの世に神がいるならば、神があの女を自分の人生に一瞬、巡り合わせたのかと。
人が人を思うとはどういうことか、人の運命とはどういうことかと。
ちなみにハンセン病は現在では不治の病ではありません。
この駄文はどうでもいいんですが、以下のリンク先はぜひ読んでいただきたい。
ハンセン病を生きて この世に生を受けて良かったなと思う
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Posted at
2014/11/13 05:58:44