
飽きもせずに志賀直哉です。志賀直哉はイイですねえ。
小説の才能ゆえに他のなにかがトレードオフされる、ってことがないんですよ。
小説に限らず、長けた才能にすべてを注ぎ込んだゆえに、人格・生活がいびつなものになってしまう、というのはあまり好きではないです。
自分が不幸になるのみならず、他人まで巻き込んで不幸にしてしまうことが多いから。
文学はじめ創作とか芸術がなぜ存在するか?と考えるに、それは人の生活に資するためであって、それ以上でもそれ以下でもなく、本人なり他人なりの人生を狂わせたり犠牲にするほどの値打ちはない。むしろ本末転倒ではないかとさえ思う。
もっとも志賀直哉も初期に関してはかなり病的で危うい内容と、そこに破綻した生活が垣間見えます。
いつからか健全で闊達とした印象を持つ大家になったんですが、ながらくそれは年齢を重ね経験を経たことから来るものだと思っていた。
しかし年表を見るに初期の危うい作品と中期以降の健康な作品に、実はそれほどの製作期間の差というのはない。
してみると、どうも結婚を期に作風ががらりと変わったように見受けられる。
芥川や太宰だって結婚して家庭を持ってたのに破滅的だったじゃねえか、って言われると、それはまぁそうなんですが、志賀直哉の小説を読んで見えてくるのは、当時は男性社会で女性の地位が低く、芥川も太宰も志賀も奥さんを「愚鈍だ」と嘆く描写が多いんですが(もっともこの3人からしたら、当時教育のなかった、たいていの女性は愚鈍に見えたろうとは思う)、志賀直哉の奥さんというのは愚鈍ではあるが、なにかあっても根に持つようなところがなく、意見するところは意見し、上手く夫を支えるような人だったんじゃないだろうか、と思う。
志賀が家庭を持ってすぐのお話なんですが、当時田舎だった安孫子に居を構え、しばらくして子供が産まれます。
そうしたなかインフルエンザが大流行して、当時は幼い子が感染すると非常に死亡率が高かったので、家じゅうで厳重にインフルエンザを持ちこまないよう対処します。
ところが女中(女中といっても今の中学生か高校生くらいの年です)が、夜遅くまで帰らない。
ちょうど近所に芝居の一座が来ていて、まさか芝居を見に行ったのではないか、だとすると人混みのなかインフルエンザを持らいに行ったようなものだ、と帰ってきた女中に詰問すると「芝居には行ってません!」とやけにハッキリ言う。やましければここまでハッキリ言わないだろうと、志賀はひと安心する。
ところが実は女中はその夜芝居に行っていたことが知れ、「平気でウソをつくとんでもない奴だ」「子守させてるときにウソをつかれると、大変なことになりかねない」と、志賀は女中を追い出すことに決めて、その子の家を訪ねる。
果たしてとっくに女中の親にも知れていて、親は平身低頭で謝る。女中はなにも言わないが目に涙を浮かべている。
志賀は暇を出すことを告げようと思ったが、奥さんに呼ばれ、田舎の狭い世間のことだから暇を出したことが知れると、この家族に気の毒だから思いとどまるよう頼まれ、志賀も、まあおまえがそういうなら、と思いとどまる。
その後女中はちゃらんぽらんでよく失敗をして怒られもするが、がんばるときはすごくがんばるところがあって、志賀家でながく務める。
いよいよ年頃になり、結婚も決まって、当時は田舎だと親同士で結婚を決めて、当事者は相手の顔も知らなかったりするのだが、志賀夫婦があの子の相手はああだこうだ、と気を揉むのに、当の本人はたいして興味がなくケロッとしている。
いよいよ別れのときとなり、ながく一緒に暮らした感傷から、志賀夫婦が心配してあれこれ話しかける。女中もいくぶん感傷的になってるようだが、この子の場合、しゃべれず空返事しかできないようになる。
志賀の子供が泣きながら呼ぶなか、振り返りもせずに汽車に乗って行ってしまった。
女中がいなくなってがらんとした気がする家で、志賀が奥さんと「あのときに暇を出さずによかったですねえ」「あの子なんか欠点もきりがないけど、いいところもたくさんあったもの」みたいな話をする。
…ある日、志賀が出先から戻ると、女中が元気に出迎えてお辞儀する。嫁ぎ先で何かやらかしたかと思って「おまえ、どうした!」と聞くと、奥さんがたまには遊びに来いと葉書を出していたらしい。あいかわらず女中はあっけらかんとしているが、なにはともあれ結婚相手が良い人ならいいがな、と志賀は思う。
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Posted at
2015/06/20 08:19:54