友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ
非凡なる人のごとくにふるまへる
後のさびしさは
何にかたぐへむ
ウチの親父はロクでもない奴だと今でも思うが、不思議と文学者を見る目だけは確かで、そういえば学生時代同居してた頃、文学者の名前を出すと、良いものは「良い」と言い、内容をすらすらと述べ、良いと思わないものは「ん…」「ああ…」とか気のない返事しかしなかった。
親父が「良い」と言ったものは確かに良く、「ん…」とか「ああ…」しか言わなかったものは確かにつまらなかったが、石川啄木については「あれは嫌いだ」とはっきり言った。
親父が「嫌い」を明言することはかなり珍しかったが、文学の批評眼だけは当時から信用してたので、「それならつまらないのだろう」と今まで読むことがなかった。
ところが先日たまたま手に取って読んだら、「ん?これはかなりおもしろいのでは…」と。
喜怒哀楽ってあるじゃないですか。
でも喜びや楽しさって表明しても良いけれど、怒りや哀しみってなんだか他人に表明しづらい、そんな空気ないですか?
怒ったり哀しいときにぐっとこらえて「こんなときこそ前を向いて」っていうよりも、怒ったときは怒って、哀しいときは哀しんで、そちらのほうが人間らしくて自然じゃないですか?
ぐっとこらえてばかりの生き方なんて冷静に考えたら嫌ですよそれ。
石川啄木の短歌自体、素人目にも「ちょっとすげーな」と思う才覚を感じますが、素直に怒り、哀しみを表明できるのが羨ましいなとも感じたり。
親父が石川啄木を「嫌い」と言った理由はおそらく、啄木の怒りや哀しみの原因となった貧困が長らく社会主義、プロレタリア文学と結びつけられて間違って語られてきたこと、本人の死後かなり経ってから、実は女遊びが原因で金使いが荒かったために貧しかったことが発覚し、顰蹙を買ったことに起因すると思われるが、貧乏人なんてだいたいそんなもんダロ、と思いもするし、文学者たるもの「それはそれ、これはこれ」だったりすることが多くて人非人のくせに作品は素晴らしいことなんてザラなので、石川啄木にのみ言行一致、品行方正を求めるのは酷だと思う。
それはともかく若い人なんか横断歩道渡るときまでスマホから目を離さず歩いてたりして、どう考えてもそこまでして見るようなたいしたもん見てないよね、と思う一方、石川啄木も自身の歌集の題名が砂だったり玩具だったり、短歌などそのようなとるに足らないものだ、ってつもりだったようですけど、でもまぁたまには歩きながらスマホの画面から目を離して毎日の通勤・通学路の生け垣に植わってる花に初めて気づくとか、家でゆっくり文庫本で詩を読んでみるとか、そんな日があってもいいんじゃないの、とは思います。
Posted at 2020/04/10 05:14:23 | |
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