
先日ひょんなことから人に手相を見てもらい、自分は元来人の話を聞かない性質なものですから、職場で上司に「おまえはああだ、こうだ」と言われても、「そんなことねえ」と右から左の馬耳東風なんですが、手相見が「タダで見てあげる」というので、「じゃー当ててみろよ」とからかい半分で見てもらいました。
が、今まで他人に言われたことないことを言われ、それは親にも言われたことがなく、自分ですら気づいてなく、ましてや上司になど言われたことがない。
ただ、その手相見のおばさんの言葉は、心にとめておこうと思ったのでした。
「蜃気楼」という小説は、芥川の死ぬ年に書かれた短編。
高校時代に初めて読み、なぜか原風景的に惹かれるものがあって、当時から気に入っていました。
芥川が妻、友人と一緒に鵠沼に立ちのぼると評判になっていた蜃気楼を見に行き、他愛のない冗談や、日々の雑事を口にする、というただそれだけのお話なんですが…。
このとき芥川は文壇では谷崎潤一郎と論争し、自分の創作活動の根幹を揺さぶられ、プライベートでは親族の重大な不始末で奔走させられ、相当精神的にまいっていて、それは作中にもふと不安に頭をもたげていたりもするんですが、全編を通すとそれまでの芥川らしくない、日常のささやかな幸福の描写なのです。
芥川はその後、「或阿呆の一生」、「歯車」と、鬼気迫るというよりも、狂気に近い作品を書くのですが、この時にはもう死を決意してると思うんですよね。「蜃気楼」はその直前に訪れた束の間の安らぎであって…。芥川の人生のもう一つの可能性だったんですが、それはやはりすぐに振り切ってしまったんですよ。
まあ文学のブログではなく、しょせんはたわごとブログなので、話が全然飛ぶんですけど、忘れられないお話があって、松本零士の「銀河鉄道999」の漫画のほうなんですが、主人公の鉄郎が最終話、終着駅で旅の目的を達成する一歩手前、直前になって、ものすごくためらっちゃうんですよ。
で、さんざん遊びほうけるわけですが、「こんな暮らしも悪くないよ」と言う女(実は変装したメノウさん)がいるいっぽう、「進むでもなく退くでもなく、ここで全巻の終わり」と言うおやじもいるんです。
まあ鉄郎ですから結局は行くところまで行っちゃうんですけど、世の中の9割方位の人は進むでもなく退くでもない生活を好むと好まざるにかかわらず選んでると思うんですよね。
自分は
「一度きりの人生を燃え上がるカタルシスで駆け抜ける…自分の力を100%発揮して戦い、死に際して何の悔いも無かったといってやる!!」(これは別の漫画のセリフ)と思ういっぽう、
「平凡でありふれた人生がいかに尊く大切なものか」とも思うわけで、このへんは35歳になった今でもどちらが正しいのかはわからないのです。
Posted at 2011/09/21 17:48:22 | |
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