
カッコつけて終戦記念日にUPしようかと思ってたんですが、ちょっと国際的にゴタゴタしてましたので、配慮から延期してました。…ウソです。終戦記念日に合わせようと思ってたのはいいんですが、内容忘れかけてて、そういやどんな本だったっけ、と読み始めたらおもしろすぎて止まらなくなり、UPが遅れてしまいました。
第二次世界大戦に関する記述ではありますが、この著者の体験談としてはこうだった、ということであって、作中でも触れてありますが、敗戦国の捕虜生活と言っても、英軍の捕虜、米軍の捕虜、ソ連軍の捕虜でも大きく体験が異なりますし、戦時中の捕虜、終戦後の捕虜というのでもまた違います。この著者の体験から、あの戦争は何だったのか?と敷衍することは可能ですが、あれだけ大規模な戦争を一元的に解釈するのは不可能だ、ということは念頭に入れておく必要があると思います。
これは終戦直後から約二年間に渡った、ビルマにおける英軍捕虜としての記録。ビルマ戦線で英軍と対峙し、全滅寸前だった五千の日本兵は、終戦後ラングーンの英軍捕虜収容所へ送られ、強制労働に服することになる。
その強制労働はソ連によるシベリア抑留のように過酷なものではない、しかし捕虜たちは英軍、さらには英国に燃えるような反感と憎悪を抱くようになる。そこにあるのは極度の日本軍、日本人への軽蔑だった。たとえば、兵舎を雑巾がけしていると、いきなり捕虜の額でタバコの火を消されたりする。そういうことを英軍兵士はごく自然に行う。同じ人間としては見ていない。
そうなるとプライドの高い日本の捕虜は「なにをっ」となる。捕虜たちは強制労働に従事するなかで、いかに作業効率を遅らせ、英軍の物品を破損し、盗むかに腐心するようになる。そのうち盗みは常套化する。英国人は被害が甚大なことに気づくが、なにぶん大らかな性格なので、日本人の狡知と器用さには敵わない。そこにビルマ人がおおっぴらに盗品と食糧との交換に現れるようになる。英軍と共同して従事するインド兵も見て見ぬふりをする。…ビルマ人もインド人もイギリス人が嫌いなのだ。
同じようにイギリス人に扱われていたビルマ人とインド兵は日本人捕虜に友好的で「マスター、もっとやれ!もっとやれ!」とけしかける。次第にイギリス兵は居心地が悪くなる、日本人捕虜は居心地が良くなる。だんだんとビルマ人の話はエスカレートして、「イングリはダメだ」「日本のマスター、もう一度やらかしてイングリどもを追い出せ」と飛躍してくる。
ビルマ人の元兵士に大東亜共栄圏について大マジメに意見を求められ、「いや、そんなお題目を言ってた司令官は毎日現地の女囲ってて、危なくなると赤十字の看護婦さんまで戦場に狩りだして、自分は飛行機で安全なとこに逃げちゃったよ」と答えるわけにもいかず、困惑させられたりもする。
(実際に終戦直前には司令官はさっさと逃げて、兵隊だけが残され、駐屯する川の上流からは戦死した兵士が毎日百、二百と流れてくる、髪を振り乱した赤十字の看護婦まで流れてくる。まともな兵装のない日本軍は英軍との遭遇、即全滅という状況だった)
そんなこんなで英軍は日本人捕虜の扱いに嫌気がさし、日本人捕虜はビルマ人とインド人の好意で、さして困難の無い状況になるが、生命の危険が遠のくと、次第に望郷の念が強くなっていく。
内地との通信で、なんとか帰還を訴えたいが、困ったことに捕虜たちも内地の家族たちも、旧陸軍の検閲に対する配慮がクセになっていて、「大変なことになってんだろうな」と思いつつも、お互い「無事です」「元気です」くらいの通り一遍のことしか書けない。
しかし「いや、イギリス人、最近マジメに手紙チェックなんかしてないだろ」と気づいた捕虜たちは、「本当をいうと、重労働で追いまわされて、力もつき果てた。生命ももうながくないだろう」という大げさな内容の手紙を示し合わせて、一斉に送り始める。
果たして内地では大騒ぎになり、いよいよ引揚船がラングーンに来る。日の丸を掲げた船が入港し、日本の看護婦さんたちが手を振っている、その肌の白さと健康さを見て「ああ、国はきっとだいじょうぶだ」と、このときはじめて捕虜たちは知ったのだ。
…という67年前のお話でした。
Posted at 2012/08/29 01:13:49 | |
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