ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
(1886年- 1954年)
20世紀前半を代表する巨匠
ベルリン・フィルの常任指揮者を1922年から1945年まで
終身指揮者を1947年から1954年務める
(その後の首席指揮者がカラヤン)
ウィーン・フィル常任指揮者兼任(1927-1930)
1942年の映像
ワーグナー:マイスタージンガー第一幕への前奏曲
(ドイツの電機メーカー工場での慰問の演奏会?)
芸術家としての立場と反ナチによる苦難に翻弄された半生
1933年 ベルリン国立歌劇場でワーグナーの「マイスタージンガー」を
指揮した際首相ヒトラーと握手している写真を撮影されている
1933年 ゲーリングの指令により、プロイセン枢密顧問官に就任
同年帝国音楽院(ナチのイデオロギー統制機関)副総裁に就任
(総裁はリヒャルト・シュトラウス)
1934年 ヒンデミット事件によりナチス政府と対立
ベルリン・フィル、ベルリン国立歌劇場の職、
プロイセン枢密顧問官、および帝国音楽院副総裁を辞任
1935年 世界的な指揮者がドイツ楽壇の表舞台から去ったことによる
イメージダウンを恐れたナチスがフルトヴェングラーに歩み寄りを
見せ両者は和解し、ベルリン・フィルの指揮台に復帰
(その後もナチスに対して反抗的な態度をとり続けた)
1936年 ニューヨーク・フィルの次期音楽監督にトスカニーニから指名されるが
ナチスの妨害により破談
1938年 ドイツのオーストリア併合後
ナチスによるウィーン・フィル解散を阻止
1939年 第二次世界大戦が勃発するがドイツに残り国内のユダヤ人音楽家を庇護
1945年 ウィーン・フィルの定期演奏会後にスイスへ亡命
(彼を嫌うヒムラーから逮捕命令を出されていた)
終戦後戦時中のナチ協力を疑われ、演奏禁止処分を受ける
1947年 「非ナチ化」裁判の無罪判決をうけ、音楽界に復帰
ベルリン・フィルの終身指揮者に
1951年 バイロイト音楽祭の再開記念演奏会で
ベートーヴェンの交響曲第9番を指揮
その時の演奏
音楽理論と実践
よく比較されるのはベルリン・フィルの後任のカラヤンである
カラヤンは楽譜にないテンポのアップダウンを避け
オーケストラ全体のバランスを重視し美しい響きを構築するのに対して
フルトヴェングラーはテンポのアップダウンは頻繁に行われ
バランスは重視しないスタイルで気ままに行っている様に思われるが
彼が楽曲の共同研究をしたこともある
音楽理論家ハインリッヒ・シェンカーのシェンカー理論
(複雑な楽譜の中から核となる音を見つけ出し
作品の骨組みを見つけ出すことを主眼とする音楽理論)
の影響を受けていることが明らかで
「楽譜の背後にある骨組みこそ作品の本質である」という考え方により
表面上の響きを整えるよりも隠れた本質を演奏で引き出すという
実際は周到に計算、熟慮の末に生み出されている演奏であると言える
ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
この1952年ウイーン・フィルとの演奏は現在も屈指の名演に挙げられている
彼の著書「音と言葉」↓
Posted at 2020/01/25 13:02:12 | |
トラックバック(0) |
クラシック | 日記