朝4時半、起床。
周囲の方に迷惑が掛からないように、駐車場の隅に移動してから暖気運転。
5月に入ってだいぶ暖かくなってきたので、暖気が完了するまでの時間も短くて助かります。
水温計が動き、アイドリングが安定した頃合いを見計らって車から降りると・・・。
あれっ・・・パンクしてる・・・。
右前輪はクタッとしており、ホワイトリボンが歪んでしまっています。
ただし空気は完全には抜けきっておらず、辛うじて踏ん張っています。
就寝前の点検時には異常が無かったので、おそらくは駐車場内で何かを踏んで
パンクし、移動した際に空気が抜けたのでしょう。
いずれにしろ、走行中にパンクしなかったのは幸いでした。
今までパンクって数回しか経験したことないんですよね。
こんなこともあろうかと!パンク修理剤「タイヤウェルド」を携行していたので注入。
まず携帯空気圧計で残っている空気を抜き切ります。
後は修理剤を入れるだけです。
このパンク修理剤は、孔を埋める液体と空気を同時に注入し
タイヤの修理を簡単に行えるという優れモノです。
・・・えーと、少ししか空気が出てきません。
なんで??
コレ高かったんだぞ!
暫く繋ぎっぱなしにしておくも反応なし。
ん~??
しょうがないのでスペア・タイヤに交換することに。
・・・別にタイヤ交換は面倒ではないんです。
でも、トランク底面に眠るスペア・タイヤは新車時の当時モノなんですよ。
果たして使用に耐えうるのか、それが何より心配なだけなんです。
しかも自分はトバしますし・・・。
トランク内の荷物をいったん降ろし、フロアマットの下にあるスペア・タイヤを取り出します。
床下収納式スペア・タイヤはトランク容積を広く確保出来るので、スペース効率に優れますが
取り出しの際に面倒なのがやや難点です(実際のトコロ、滅多に使わないので良いんですが)。
パンク修理剤を外し、ジャッキをかけてクリップナットを緩めていると
突然パンク修理剤が泡を吹きだしました!
慌ててタイヤのエアバルブに繋ぎましたが、勢いよく噴き出してしまい間に合いませんでした・・・。
なんだよコレ・・・勘弁してよもう~。
※後日、ホルツさんから代替品を戴きました!
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そんなこんなしながら、タイヤ交換が終了。
これが、新車時の純正指定タイヤ「ブリヂストン・スカイウェイH」です。
現代のテンパー・タイヤと違い、当時はスペアを含む5本のタイヤをローテーションしながら
履くように指示されており、このタイヤも使用された形跡があります。
ただし溝は深くサイドのヒビ割れもなく、少なくとも外観的には問題なく使用できるように思えます。
ブリヂストンはプリンス自動車の最大の株主にして経営母体であり、純正指定タイヤも
当然ながらブリヂストン製品を採用していました。
スカイウェイとは「航空路」を意味する英語ですが、スカイラインの派生商用車にも
その名は冠されており、プリンスとブリヂストンの血縁関係の深さを感じさせます。
また、ブリヂストンはプリンスを手放したのちに自社製の自転車にも同じ名を与えています。
サイズは7.00-13-6PLYで、それらの表記が意味するものはそれぞれ
7.00(タイヤの幅7インチ)-(バイアスを意味する記号)13(タイヤの内径)6PLY(層数6枚)で
「H」は耐えうる最高速度の表示で、210km/hの走行負荷に耐えられることを意味しています。
当然ながらバイアスで、内側寄りの細身のホワイトリボンに特徴があります。
サイド・ウォールのリブがたまらなくカッコいいです。
バイアス・タイヤ特有の”ギザギザ”のトレッド・パターン、やや膨らんだサイド・ウォールと
キュッと段の付いたリブのコントラストが美しいです。
やはり当時の車には当時のタイヤがマッチするので、佇まいも”らしく”見えてきます。
ブリヂストンは、1960年代に既に
「世界のタイヤメーカー・ベスト10に名を並べる唯一の日本メーカー」
としてその名を轟かせており、優秀な製品を送り出していました。
ヨコハマやオーツ、日本ダンロップといった國産他社よりも高めの価格設定でしたが
ブリヂストンは「耐久性が高く、寿命が長いので結果的には有利」であると宣伝していました。
1960年代前半には早くもチューブレス・タイヤを開発、未舗装路が多く
パンクが日常茶飯事であった当時としては画期的な商品でした。
正直なトコロ、高速走行の高負荷に耐えうるか不安でしたが
この旅行の直前に空気を充填したあったので、おそらく大丈夫だろうと自分に言い聞かせました。
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森町のスタンドで給油した後、昨日進んできた道を戻ります。
正規ディーラーである、カローラ八雲店のショールーム内には
初代カローラ・2ドアセダン・デラックス(KE10)がありました。
以前から情報は得ていましたが、実際に見るのは今回が初めてです。
2ドアの後期型で、白と並ぶイメージ・カラーである赤でした。
まだ朝早く開店前でしたので、ガラス越しに眺めただけで内装は見えませんでした。
トヨグライドのエンブレムは無いので、おそらくはMT車と思われます。
個人的には、KE15/17型のカローラ・スプリンターが好みです。
店舗の裏側には、ダイハツ・デルタワイドがありました。
海岸線沿いだけあって、見事に崩壊しています。
デルタワイドにはバンとワゴンがありますが、ボディの後半部が崩壊していたので
どちらかは判断できませんでした。
独特のデザインのヘッドライト・ベゼルと、「D」マークのエンブレムで辛うじてデルタとわかりました。
ボディは大きな孔だらけで、カットモデル並みに内部構造が剥き出しになっています。
ひん曲がったカリフォルニア・ミラーが哀愁を感じさせます。
手前にはエンジン(2T?3K?)や、ウィール・トリムリングが半ば土に還っています。
倒壊した物置?の中に見えたのは・・・
おぉっ!スズキ・バンバンRV50だ!
鮮やかなオレンジの塗色が、ファニーなルックスとマッチしています。
フロント・フォークから、当時モノのコーナー・ポールが生えています。
バンバンは1971年に90ccモデルが登場、72年に125ccと50cc、73年に75ccが相次いで
発売され、レジャーバイク・ブームを代表する車種として高い人気を誇りました。
「バルーン・タイヤ」と称されるファットなタイヤが特長で、砂浜などを走行する際に
空気圧を調整出来るように、空気入れも純正で装着されていました。
アップマフラーなど、その外観はオフロード車的なものがありましたが
開発陣の回顧録では、飽く迄も雰囲気重視のバイクであったとあります。
キャッチコピーは「地球に乗るならバンバン」でした。
我が家にも青いバンバン50があり、とにかく遅いですが楽しいバイクです。
キャンプの際に車に積んで、出先で乗って遊ぶのに適したバイクだと思います。
と言うか、交通量が多く流れも速い主要國道では合流するのも大変だったりします。
ふと、視線を感じると・・・
あらかわいい!
番犬ならぬ番猫?
毛並みも綺麗で、人慣れしているようだったので飼い猫でしょうか。
自由気ままにお散歩かしら?
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朝靄が薄れると、雲ひとつない碧空が広がりました。
最終日にして、ようやく天気に恵まれました。
運転席の窓を全開にし三角窓を少し開き、爽やかな初夏の風を受けて海岸線を走ります。
懸念であった46年前の熟成されたBSスカイウェイHは、全く問題なく高速走行をこなしました。
長万部から内陸に入り、黒松内~ニセコ町を経て倶知安へと向かいます。
途中、見事な一本桜に出会いました。
済み切った青い空と、満開の桜の対比が織り成す美しさに思わず感動します。
桜という花は、日本人の心を揺さぶる特別な力を秘めています。
桜をバックに1葉。
澄み渡った碧空は、遥かに望むニセコ連峰の美しい雪化粧をより引き立てます。
蝦夷富士とも称される羊蹄山は、荘重なシルエットを湛えています。
羊蹄山をバックに1葉。
・・・写真を撮るのがヘタクソなせいで、平板なホリゾント背景みたいになってしまいました。
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目的地の倶知安風土館に到着。
すると風土館の向かい側に、ホンダ ライフ・バン(VA型)がありました。
この角度からはわかりにくいですが、1971年9月6日に登場したバンです。
豪雪地帯ゆえか、屋根が完全に潰れています。
ただし、今まで見てきたホンダ車の廃車の多くは接合式のルーフ・パネルが脆いように思えます。
このライフ・バンの中には、CB50JX-I(1976.2~)のものと思われる
赤と青のストライプが刻まれた燃料タンクが置いてありました。
足元にはバイクが埋もれていました。
露出したターンシグナル・レンズやクランクケース・カバーがわかりますでしょうか?
車種はわかりませんが、レンズの形状から見るに1970年代のホンダ車でしょう。
この他にも、ホンダZ・GSS(SA型)1972.11~1974年のHTボディ、
三菱ランタボが2台、TE37カローラ・レビンがありました。
おそらくはマニアのヤードなのでしょう。
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風土館の駐車場に並ぶ桜の木は、まだ満開ではありませんでしたが
若櫻の持つ凛とした佇まいもまた、この胸を打たずにはいられません。
櫻の花は、儚く散るからこそに美しきかな
俱知安風土館に入場すると、エントランスに寄贈されたスバル360が展示されていました。
初年度登録は昭和43年(1968)で、中期型(中期の後期)の11本スリットのモデルです。
スリット付フロント・フードと、サイドターンレンズの両方が備わるの唯一の年式です。
自作と思しき、パイプを加工して作られたバンパー・オーバーライダーがユニークです。
紫色のサイド・バイザーや、純正OPの差込式ヘッドレストが備わっていました。
タイヤはブリヂストン・スノーマスターで、寄贈したオーナーが
冬も普通に乗られていたことが想像されます。
リヤトレーには、当時モノのカー・ノンスメルが置いてありました。
ノンスメルに自動車用があったとは、初めて知りました。
車の前に、データや簡単な解説文が書かれたボードがあるのですが
データがヤングSSのものになっていました。
こういう風に重箱の隅をつつくのが、ひねくれたマニアの悪い癖ですね。
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今回、俱知安風土館を訪れた1番の目的は零戰の主翼を見る為です。
木枠で作られた展示ケースの中に、零戰の右主翼が収められています。
当時、冬季の雲中飛行時に原因不明の墜落事故が多発した為
海軍は機体への着氷が関係しているのではないかと推測し、原因の究明と対策を
帝國大學理學博士号を持つ低温科学研究の第一人者、中谷宇吉郎教授に依頼しました。
中谷宇吉郎氏は、「雪は天から送られた手紙である」との言葉で有名な研究者で
世界で初めて人工雪の製作に成功、気象条件と雪の結晶が形成される
過程の関係を解明するなど、大きな業績を残された方です。
実験場となったのは標高1308mを誇るニセコアンヌプリで、現在も世界的なスキー場の
ひとつとしてその名を知られています。
冬の間、深い雪に覆われるニセコアンヌプリの頂。
航空機着氷実験は昭和16年に始まり、まずは雪洞やテントを用いた基礎研究が行われました。
大東亞戰爭の真っ只中である翌17年には、山の中腹に中間観測所を設営し
世界で初めて着氷のメカニズムを解明する偉業を成し遂げました。
この成果に対し、軍部は更なる技術開発の必要性を認め山頂により大規模な観測所を建設。
これがニセコ高山観測所(正式名称:ニセコ山頂海軍着氷防止技術研究所)です。
北部第百四十九部隊の麾下に置かれた観測所には、中谷教授をはじめ
横須賀海軍航空技術廠の技術将校といった陸海軍の軍人、北海道帝國大學の
低温科学研究所スタッフ、撮影班、身の回りの世話係の女性などが勤務していました。
昭和18年~19年には、当時第一線を退いていた
海軍の96式艦上戰鬪機が実験機として設置されていました。
その後、風土館に展示されている零戰に交換されました。
実機を用いた実験では、大型風洞をはじめとした実験装置によって主翼や機体、
風防(キャノピー:操縦席のガラス)、プロペラへの着氷のメカニズムの解析が行われました。
過酷な状況下で行なわれた実験は大きな成果を得ましたが、終戰に伴い研究も中止され
飛べないとは云え、兵器である実験機は武装解除の命により
山頂から投げ捨てるように廃棄されました。
廃棄された零戰の機体は、地元の住民によって回収され鍋や釜に姿を変えました。
そんな中、辛うじて残った右主翼が北大探検部によって1990年に発見された後
2004年に回収され、風土館に展示されることになりました。
実験機は零戰21型をベースとした改良試作機であり、随所に零戰32型への改造が見られます。
主翼に輝く誇り高き日の丸は、今も鮮やかに残っていました。
零戰(ぜろせん、れいせん)は云わずと知れた大東亞戰爭時の帝國海軍を代表する
戰鬪機で、その勇名は世界に轟きました。
零戰は先ず十二試艦上戰鬪機として開発が進められ、性能優秀として正式採用され
皇紀の下二桁から「零戰」と命名されました(採用年次は皇紀2600年、昭和15年/1940年)。
量産最初期型である11型は少数のみが生産され、すぐに小改良型の21型に移行しました。
航空母艦での運用を容易にするべく、主翼の両端を折り畳めるようにしたのが特長です。
21型は圧倒的な空戰能力で連合軍戰鬪機を圧倒しましたが、激戰の中で
続々と投入される敵新鋭機に対抗する為、弛まぬ改良が施されました。
改良型の32型はより高出力な発動機へと換装し、主翼の折畳機構部分をカットし
空気抵抗を低減させ最高速度を上昇したと共に、運動性も向上しました。
米軍をして「ZEEK(連合軍側の零戰のコードネーム)との格鬪戰は避けよ」とまで言わしめた
21型を凌ぐ高い運動性を得た32型は、1943年6月付けの米海軍日本軍機識別帳に於いて
「南太平洋戰域において最も重要な戰鬪機のひとつ」と名指しされるまでに至りました。
「大空のサムライ」として知られる台南(台湾南)航空隊所属の坂井三郎氏の乗機「V-103」號機。
楕円に成型された翼端に注目してください。
飴色塗装の零戰32型、21型に比べ翼端が角張っているのがわかるでしょうか。
32型は発動機を栄12型から、改良型の栄21型に換装し出力を向上。
遠心式過給機(スーパーチャージャー)は1段1速式から1段2速式に強化され
最高出力は950馬力から1100馬力に上昇しました。
(ただし航空機用エンジンは高度によって出力が変化する点に留意)
零戰の機体は三菱重工業の開発でしたが、搭載された栄エンジンは
プリンス自動車/富士重工のルーツである、中島飛行機が開発したものでした。
栄エンジンには、運動性を向上させ宙返りなどの機敏な空中機動を可能とするべく
気化器に多重の逆流防止用弁が採用されました。
この逆流防止弁は後に、中島飛行機のエンジニアを多数擁していたプリンス自動車に
於いて、R380の開発の際に採用されることとなります。
富士スピードウェイの30度バンクでは燃料が片寄ってしまい、エンジンがストールしてしまう
問題がありましたが、この逆流防止弁(スカベンジング・ポンプ)によって解決し
第3回日本グランプリでの優勝に繋がったのでした。
駐車場のプリンス・グロリア、エントランスのスバル360、そして展示されている零戰と
奇しくも中島飛行機に纏わるものが一堂に会したことになり、感慨深いものがありました。
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館内には、当時の雑誌なども並べられていました。
皇太子殿下(今上天皇陛下)の北海道御巡幸と、御成婚の特別誌が置かれていました。
本道御巡幸に際しては、1955年型ビュイック・スペシャル・コンヴァーティブルにお乗りになられ
札幌・美幌峠・阿寒湖・釧路・夕張・室蘭・小樽・富良野・苫小牧・登別温泉・洞爺湖・函館などの
主要都市・景勝地をお巡りになられました。
本来はセダン型乗用車にお乗りになられる予定でしたが、故障の為に
急遽コンヴァーティブルに変更されました。
警備上の問題もあり、オープンカーの使用はあまり例のないことでしたが
歓待する道民達との距離感は縮まりプリンス人気は愈々高まった、と記事にありました。
皇太子殿下御成婚の特集誌からは、「世紀のご成婚」として日本中が奉祝ムードに
盛り上がった様子が誌面から良く伝わってきました。
広告欄も奉祝一色となっており、富士銀行は「皇太子殿下御成婚記念 慶祝定期預金」を開設。
味の素、第一小型ハイヤー、札幌駅地下ステーションデパート、日本長期信用銀行、
武田薬品らが広告に於いて御成婚をお祝いしています。
我がプリンス自動車も、この佳き日をお祝い申し上げております。
・・・
「国産初の大型高級乗用車 プリンスグロリア 1.900cc」
国産初のこのプリンス大型乗用車は、皇太子殿下の御婚儀を記念して
プリンスグロリア(栄光)と命名致しました。
旭川プリンス自動車株式会社
・・・
御成婚をお祝いし「皇太子の栄光」と命名されたグロリアは、皇室に献上され
皇太子殿下自らハンドルをお握りになられ、ドライブを愉しまれました。
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「諸官公庁御推奨 眞空式防火彈 人畜無害」
防火彈(消化彈)とは、現在の消火器が普及する前に一般的であった消火用具です。
ガラス瓶の中に、塩化アンモニウムや炭酸ナトリウムなどを充填したもので炎に投げ込むと
容器が割れ、中身の薬剤が発生させる消火性ガスによって鎮火するというものです。
この他にも、1986年に廃線となった國鉄胆振線の駅の看板類や
昭和30年代の冷蔵庫、洗濯機、アイスクリーマー、ジューサー、製氷皿、
スチームアイロン、ミシンなどが展示されていました。
ホンダC200も展示されていました。
C200は1963年に登場したビジネス・バイクです。
排気量は90ccなのに「200」という車名でややこしい?です。
サドル・タイプのソロ・シートに、ヘヴィ・デューティなリヤ・ラックの組合せが
質実剛健な感じでGOODです。
レストアどころか、現役当時のまま一切磨かれていないような雰囲気が味です。
昭和30年代の自転車もありました。
美しい曲線を描くフレーム、フロント・フェンダーに備わる白いマッド・フラップ、
キャラメル色の味わい深い色合いの革製サドル・・・。
軽快なシルエットと重厚なディティールを兼ね備えています。
自転車が立派な「財産」であった時代の証です。
自転車と云うより、寧ろ「銀輪」と呼ぶべきものでしょう。
お狸様も居られました。
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倶知安風土館を見学した後、伊達の北湯沢へ向かいます。
その途中、俱知安-京極町-喜茂別町と進み國道276号に乗らなければいけないのに
交差点で道を間違って、230号線に乗ってしまいました。
標識を見て「間違ったかな?」と思い、地図を確認してすぐに反転。
するとハイソカー軍団が。
マニアの所有車輌なのでしょう。
正規のルートに戻り、次なる目的地の北湯沢へと山中を駆けます。
またもや続く!