乃木希典・静子夫人殉死の刀
明治天皇に殉じた乃木夫妻の遺品
2011年11月26日

乃木神社宝物殿に展示されている社宝「御殉死の刀」です。
乃木希典は嘉永2年(1849)、現在の六本木ヒルズ毛利庭園にあった長府藩上屋敷で生まれました。慶応元年(1865)に幕府が第2次長州征伐を決起すると、騎兵隊の山縣有朋の下で小倉戦争に加わりました。その後、陸軍に任官し、秋月の乱や西南戦争に従軍したのち、明治11年(1878)静子と結婚しました。
明治37年(1904)に日露戦争が始まると、第三軍司令官に任命され、旅順要塞の攻略を命じられました。翌年、乃木はこの戦いで正攻法を行い、ロシアの旅順要塞を攻略し、さらに奉天会戦にも参戦し、日本の勝利に貢献しましたが、2人の息子をはじめ大多数の犠牲者を出してしまいました。
乃木は帰国後大いに賞賛されましたが、明治天皇の御前で、第三軍が作戦目的を達成出来たのは、上級司令部の作戦指導および友軍の協力によるもので、自らの作戦指揮については旅順攻囲戦では半年の月日を要した事、奉天会戦での好機に敵を撃破できなかったこと、さらには自刃して明治天皇の将兵に多数の死傷者を生じた罪を償いたいと奏上しました。
明治天皇は乃木の苦しい心境を理解しましたが、「今は死ぬべき時ではない、どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ」という趣旨のことを乃木に告げました。
明治40年(1907)に乃木は明治天皇の計らいで学習院院長に就任し、孫でのちの昭和天皇の教育・指導を任されるようになりました。
ところが、明治45年(1912)7月30日、明治天皇が崩御すると、大葬の日の9月13日午後7時40分ごろ、妻静子とともに自邸で自刃してしまいました。
当時遺体の検視にあたった詳細な報告書において、乃木夫妻の自刃の状況がこのように記述されています。
乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ごろ、東京市赤坂区新坂町自邸居室において明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経及び第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。
夫人(静子)は、乃木が割腹するのとほとんど同時に、護身用の懐剣によって心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり、乃木にやや遅れて絶命した。
乃木の「殉死」を受け、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称が行われ、その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立されました。
住所: 東京都港区赤坂8-11-27
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