さて3日目です。
今日明日は長崎市に展開となります。
朝起きてまずは長崎に。
佐世保駅から長崎駅まではブルーライン号で1時間半です。
お、思ったより距離あるのね。
冷房がガンガンきいてるわ、2両編成なのに乗客いっぱいで混雑してるわと、時間の割りにちょっときつかったなぁ。
ちなみにこの車両はヂーゼル車です。
駅からタクシーでグラバー園がある方向に向かいます。
その途中にあったのがこれ
オランダ坂。
東洋人以外の人がよく歩いていたからオランダ坂と呼ばれていたようですが・・・
う~ん、どこからどうみても坂です。
その近くで長崎孔子廟があります。
時間の関係上ここにはいきませんでした。
さて、グラバー園に到着しました。
入り口横にある橋がすごく景色がよく、長崎港を見渡せます。
長崎港は出島で知られるように古くから貿易港として栄えていますが造船も盛んで、戦時中には戦艦武蔵も建造されています。
グラバー園にある池には水中生物が食糧を求めてパニックになっていました。
グラバー園は長崎に居留していたグラバーさんちをはじめ、西洋人の洋館を後世に伝えようと6つの洋館を移築復元したものです。
ではちょこっとみていきましょう。
旧長崎高商表門衛所です。
ハイカラな建物ですが、実は畳敷きだったりします。
ウォーカーさんち。
ウォーカーさんといっても朝鮮戦争で活躍した第8軍司令官じゃないよ。
英国の実業家で我が国の海運業に影響を与えた人です。
ジャコモ・プッチーニさん
イタリヤの作曲家ですが・・・なぜここにあるんでしょう?
こんなのありました。
西洋料理発祥の碑です。
何でも幕末の1863年に西洋料理屋をひらいたことに由来するそうです。
暑いにゃー
リンガーさんち。
英国の実業家で明治から昭和にかけて長崎で事業を展開しました。
オルトさんち。
英国の実業家で緑茶輸出で財を築いた人です。
オルトさんちの中。
ふ、ふんだ、うらやましくなんかないんだからねっ!
スチール記念学校。
スチール博士が息子がなくなったことを記念して作られた寄付をもとにつくられた学校で、今は明治学院と統合しました。
残ったこの建物はいろんな学校の厩舎として利用されてたそうです。
グラバーさんち。
このグラバー園の名前のもとになってるグラバーさんは英国の実業家でグラバー商会を設立しました。
伊藤博文の留学を支援したり、幕末の激動期に志士たちを援助していたそうです。
グラバーさんちは国内最古の木造西洋建造物として重要文化財に指定されてるそうです。
グラバーさんのとある日の食事。
・・・ええなぁ、ええなぁ・・・・・
さて、実はここであまりの暑さで気分を悪くしちゃいました。
フラフラで少し歩くのもしんどい状態。
体温はさほどでもなく、動ける状態ではありましたが休憩所で安静にしてました。
う~ん・・・・・
このあといろいろ回ろうと思ったのですが体力的にも不安があったのでここで打ち切って宿にいくことに。
とはいえ、タクシー乗り場に行くには・・・・出口までいかなきゃならないんだよなぁ。
出口は長崎伝統芸能館を通り抜けます。
冷房が効いていてちょうどよかったです。
ここには長崎くんちに使われている山車が展示されています。
が、見てる余裕なかったです(^^;
長崎くんちの龍踊りの龍と玉ですね。
もちろんじっくり見る余裕もなく、出口のタクシー乗り場に。
出口からほどなく大浦天主堂があります。
国宝に指定されている貴重な建物ですが、残念ながらここも見る余裕なく、素通りしてタクシー乗り場へ。
タクシーでホテルに到着して少し休んだら近くに病院があるのでいくことにしました。
「軽い脱水ですね。熱射病の初期の初期段階です」
うへっ。
水分補給はそれなりにやってたのですが、やはりナトリウムなどが欠乏したり水分量が少なかったのでしょう・・・・
大事を取って点滴することになりました。
仕方ないのですが、長崎まで来て観光ではなく点滴というのは悲しい・・・・
宿から見た長崎港。
ここの公園から長崎港をみたかったなぁ・・・・
夜になって体調ももどってきましたので駅ビルで夕食を。
あ、そういえば昼食は脱水でまだたべてなかったっけ。
本当なら昼食はトルコライスをたべたかったんだけどな。
大変高価なステーキを食べました。
ごはん付でこれ1食でチキンラーメンが15袋も買えるぞ!
長崎といえば夜景の街。
丘から美しい夜景を・・・みたかったなぁ。
ホテルの窓から写してみましたがこんな感じ。
この日は早め(22時前)には就寝しました。
さて最終日。
いよいよ長崎ともお別れですが、まだ肝心なものをみてません。
そう、平和公園です。
朝食を食べて9時前にはタクシーで平和公園に向かいました。
平和公園のシンボル平和祈念像です。
高く天を指す右手は原爆の脅威を、水平にした左手は平和を、屈強な身体は絶者の神意を、優しい顔は神の愛を、軽く閉じた目は黙祷を現してるのだそうです。
昭和20年8月9日、広島に続いてここ長崎に人類2回目の核攻撃が行われました。
この周辺は核攻撃前には長崎刑務所浦上支所がありましたが、爆心地から近いこの場では全員が即死しました。
浦上天主堂の石垣です。
爆心地から500メートルの位置にある上浦天主堂は核攻撃により崩壊しましたが石垣は残っていました。
老朽化のため整備した際にその一部をここ平和公園に移築したものです。
その浦上天主堂です。
天主堂は核攻撃で完全に破壊されて一部の外壁を残して廃墟となってしまいましたが、広島の原爆ドームのように遺構として遺すことなく撤去となってしまいました。
この建物は昭和34年に新築されたものです。
中には被曝マリア像などもあり、大聖堂ではとても荘厳な雰囲気を感じました。
天主堂前にある被曝した石像です。
爆心地から500メートルも離れていたのに頑丈な天主堂が完全に崩壊、石造も破損することからもその威力のすさまじさを伺えます。
この後タクシーで原爆史料館に向かったのですが・・・・
タクシーの運転手が新人なのか応援なのか、ちーともわからない人で、原爆史料館がどこにあるのかわからない(長崎観光する人なら絶対に行く場所でしょうが・・・・)ということで地図みながら運転してましたよ・・・
トホホ。
原爆史料館を見学です。時が止まった時計や長崎型原爆の模型、遺品や遺構などが展示されていました。
どれも核攻撃の惨劇、その後の放射線障害の恐ろしさを伝えています。
長崎の人口密集地に行われた核攻撃では当時の推定人口24万人のうち、死亡約7万4千万人、負傷約7万5千人という大惨事を引き起こしました。
半径1キロの建造物は全壊、4キロでも半壊、消失土地面積は実に6.7平方キロにもおよびます。
核攻撃に使用された原爆は22キロトンですからTNT火薬に換算すると2万2千トン、広島原爆の1.5倍もの威力がありました。
さて、まだ時間もあったのですが、昨日の脱水症状のこともあって早めに切り上げることにしました。
この後長崎港やめがね橋なんかもみたかったのですが・・・
ホテルに戻ってお昼まで休憩、そして帰るために長崎駅へ。
これが帰りに乗った特急かもめです。
中がレザーシートのようで豪華でしたよ。
博多まで2時間、そこから名古屋まで3時間ちょいと移動だけで結構疲れましたが、いろんな意味で思い出になりました(^^)