2014年05月13日
経緯の23。政治は足の引っ張り合い
原稿ではここで有名なエピソードに触れるのだが、話題が行ったり来たりするので時間は先に進んでしまうがもう少し『原水禁』の話を続けていく。
こんな具合で被爆の真相が広まって行くのだが、被爆の実情を知る人が増えるに連れて原爆反対の動きに軋みが生じ始める。
これが拡がりつつある原水禁の動きに大きな傷を残すことになる。
ことの始まりは1960年に行われた日米安全保障条約の改定を睨んだ動きだ。
あの国民規模のデモを呼んだ騒乱である。
広い理解を得られて原水禁運動が世界規模になるとそれなりに周りの状況に敏感になるのだが、59年春には米軍駐留と自衛隊共同の武力行使を認めた安保改訂が日本を米軍基地化する危険な法律だとして、原水禁13団体が安保改訂阻止会議を行う。
核兵器配備が既にソ連やイギリスで拡がって、ともすれば日本も在日米軍によって核武装する危惧があった。
でもコレが自民与党の癇に障ってしまう。
『平和にかこつけて安保改訂を論じるのは政治介入だ』と原水禁世界大会を欺瞞だと断じた。
今考えるとアメリカの機嫌を損ねて『核の傘』から外れたくない思惑があったのだろうが、原水爆禁止の動きが政治介入と断じられたこの判断が以後の平和活動をゆがめてしまう。
この59年の原水禁世界大会はその自民の発言を受けた右翼が熾烈で卑劣な妨害活動を様々繰り出して、世界の反響とは裏腹に険悪な雰囲気の中で行われた。
『浅沼社会党委員長刺殺事件(60年)』の犯人、山口二矢も平和集会に闖入して糊を撒き散らして妨害したという。
基本右翼は古今東西一貫して平和活動には徒なす存在でしか登場しない。
国粋と平和が相反する存在という認識も強くなるのは仕方ないことである。
そんな高圧的な政局を反映して、平和活動が声高に闘争的になって行くに連れて、その運動性に疑問を持つ団体が出てくるようになる。
その動きに政治が後ろから口添え入れ知恵をするようになる。
翌年には従来の『原水協(原水爆被害者団体協議会・55年成立)』から別にもう一つの原水禁団体、民主社会党・全労会議系主導の『核禁会議(核兵器禁止平和建設国民会議)』が、
62年は自民党の『全日本被爆者協議会(後に核禁会議に合流)』が発足するし、
大きな幹になる原水協もソ連の抗議に消極的だと主張する社会党・総評系が共産党と離反して64年に『原水禁(原水爆禁止日本国民会議)』を組成して霧散分離していく。
その共産党も63年の中ソ紛争で更に意見分裂したし・・・・・・・・・・
どうしてこう見事に原則からバラバラになるんですか?
概要は核禁会議は運動の闘争化を嫌い、被爆協は政治非介入とデモ活動の不参加を唱え、原水協はアメリカの独走を赦さないと言った背景がある。
党利党略マル出しじゃないか。
頑なに核兵器を非難することが否定され始めた。
政治的な活動はベトナム戦争の泥沼化で各運動とも分裂したまま沈静化してしまって、ゆくゆくは原水協と原水禁が世界大会を行うようになって行くのだが、倦怠化する運動もあって77年には原水禁・原水協が歩み寄り、79年には核禁会議とも合同でやっと統一世界大会が開かれるようになった。
被曝協は活動意義すら見いだせなかったようで70年代生まれの私には全く聞き及びがない。タニマチだけにやる気が無かったのだろう。
・・・・・60年分裂だから19年。この期に及んでひどく長引いてしまった。
この無意味な分離が収束したのは市民活動が息付く80年代まで待たなければならなかった。
ソレも欧米の市民グループの「黒船」を受けての動きだったから言ってしまえばお粗末そのもの。
原水禁運動も政治活動だと政治が判断すると途端に平和から遠ざかったのだ。
日本での確固とした平和活動が行われてこなかった裏返しがとんでもない停滞を起してしまった。
あまりにも「内圧」に流され過ぎた。
後年も世界的な核兵器廃絶への高いハードルを目の当たりにする訳なんだが、ソレはまたあとに譲るとしよう。
平和活動が市民に戻るまでもう一悶着あるんだ、これが。
(今項の人名は殺人犯でもあるため敬称なし)
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Posted at
2014/05/13 10:20:33
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