1993年、クルマは良くなっていた。サルテ・サーキットのすべてのコーナーで、トヨタの方がプジョーより速かった。1992年のル・マンでは、プジョーの関係者は、誰もトヨタのピットを覗きに来たりはしなかったが、1993年はそうではなかった。テスト・デイに、エディ・アーバインは、まず言った。「このクルマ、3分25秒で走れるよ!」。そして予選用エンジンを載せた時、エディは言った。「このエンジンなら、3分20秒を切れる!」
ただ、このアーバインのアタックは、結果としては不発に終わった。アーバインはスピン・アウト。タイヤが冷えていて、フロントとリヤのバランスが崩れており、ブレーキングでコントロールを失ってしまったのだ。ちなみに、プジョーが予選用エンジンを使って奪取したポールポジションのタイムは、3分24秒94だった。
決勝レースが始まっても、「プジョーは何故、速く走らないのか?」と、トヨタ側では思っていたという。中盤、最速のプジョーであったフィリップ・アリオー組を抜こうと思えば抜けたのだが、トヨタは2位キープを選んだ。「抜いちゃうと、アリオーがついてきて面倒だ」というのがアーバインの判断だった。
ただ、“速いトヨタ”はいくつかのマイナートラブルに見舞われ始め、ピットストップの時間が少しずつ長くなった。そして、その「遅れ」をコース上で走って取り戻す。24時間レースは、こういう展開になった。
小さなトラブルとは、たとえばサイドポンツーン内でバッテリーが暴れてしまうことだ。これは、ボディの軽量化ということでステーを変更したことによる“ツケ”であったようだが、その修復で遅れた分を取り戻そうという「走り」が、TS010をジワジワと痛めていく。アーバイン組のマシンはクラッチをやられ、そしてついに、ミッション・トラブル。他の2台も同じような経過をたどった。
……速くはないし、92年車からあまりディベロプメントもされていないような、そしてそれなりにトラブルもあったプジョーだったが、結局、ル・マンのウイナーとなったのは、そういうプジョーだった。
勝負事では、先に動いた方が負けというセオリーもある。1992~1993年の「ル・マン」では、ずっと“動いていた”のはトヨタだったのではないか。24時間レースがより「スプリント化」すると読み、その方向でマシンをモディファイし、エディ・アーバインや鈴木利男といったファスト・ドライバーを新たに加えた。Cカー最後の「ル・マン」に必勝の態勢を作り、事実として、より速くなったクルマをサルテに持ち込んだ。しかし、結果だけが出なかった。24時間レースのむずかしさと厳しさ……ということであろうか。
このトヨタTS010というクルマは、見ておわかりのように、実にディテール(細部)が綺麗なクルマである。ワークス・マシンというのは、きめ細かく作られているものだなと思う。何でもない接続部のパーツなど、そうしたひとつひとつの仕上がりがとても美しいのだ。
もしかしたら、長距離レースに勝つという荒ワザを成し遂げるには、このクルマは美しすぎたか。そんな感慨さえ浮かぶほどだが、もはやターゲットを失ってしまった麗しの挑戦者は、後輩マシンに最新・高性能のヘッドランプを託し、いま、静かに佇んでいる。
(了) ── data by dr. shinji hayashi
(「スコラ」誌 1993年 コンペティションカー・シリーズより加筆修整)
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2016/02/26 07:03:06