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イイね!
2008年04月22日

日記 ⑦

 前の日記帳のページ数が尽きたようなので、七冊目。

 日記      


 □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □


〔日記〕

 20.6.14(土)

 日記帳がいっぱいになった。。


 20.6.13(金)

 村治佳織だ、と思ったら村田千佳だった。


 20.6.12(木)

 播州に永福という郷がある。酒米「山田錦」の産地で、剣菱契約田になっている土地だ。
 その永福(えいふく)を通ったとき、奥村永福(ながとみ)を思い出した。
 前田家の家臣で、佐々成政の攻撃を受けた末森合戦において末森城を墨守した人物だ。
 まあ、奥村助右衛門の方が、通りが良い。

 そしてさらに思い出した。
 昔、漫画花の慶次が小説一夢庵風流記を原作としていると知った同級生がいたことを。
 彼は、読書感想文の題材に困り、これを知るや花の慶次のあらすじを書き立てた。
 あとで皆して彼に出来ばえを訊いたところ、岩兵衛やらカルロスやら竜嶽親方の名まで出てきたので、なにやら眩暈がした。
 …。カルロスとかは、小説には出てこんのよ…。orz


 20.6.11(水)

 先月中旬の話。
 摂津の花隈城、南京町、大丸の小磯良平・東山魁夷展、三宮神社、北野へ行った。

 花隈城は、織田氏の配下となった摂津の豪族の荒木村重がつくったともいわれる。
 伊丹有岡城を本拠に摂津を任せられた村重は、長引く石山合戦のさなかに謀叛を起こした。
 1578年の同時期に反織田の烽火をあげた西国の主な勢力は、石山本願寺の他、丹波八上の波多野氏、東播三木の別所氏、中国の毛利氏、備前の宇喜多氏など。
 当時、西播の上月城は織田氏の部将・羽柴秀吉の手にあり、守りに尼子残党を入れていたが、別所氏の離反により、秀吉は前線を後退せざるを得なくなった。
 この隙に、毛利氏は宇喜多氏とともに大軍を繰り出し、上月城を降伏させ、尼子残党の将・山中鹿助(しかのすけ)を謀殺した。
 縁戚同士の別所氏と波多野氏、それに最前線の荒木村重は、毛利氏の支援を受け、互いに連携もして頑強に抵抗した。
 例えば、別所氏の三木城への兵糧運搬ルートのひとつに、毛利の水軍(村上水軍)が兵庫の湊に兵糧を陸揚げし、花隈城から丹生山を通り、淡河城から山中をつたって運び込む、というルートがあった。
 しかし翌年には、これらの兵糧の路はあらかた秀吉の手によって断たれた。
 荒木村重は有岡城の籠城戦が続く中、突然家臣も親族も捨て置いて単身城を脱出し、花隈城へ落ち延びた。
 さらに花隈城まで迫られると、毛利氏のもとへ逃げた。当然、有岡城も花隈城も、すぐに落ちた。
 それから三年余り時が過ぎ、世は一変した。
 波多野氏も別所氏も絶え、宇喜多氏も毛利氏も秀吉と手を結び、なによりも、甲州武田氏を滅ぼした織田信長が暗殺され、家来筋の羽柴秀吉が主家の天下の権を奪い、天下人となりつつあった。
 かつて織田氏に叛逆した荒木村重は、堺に出て、千利休の高弟のひとりとなっていた。その名も、荒木道薫(どうくん)。
 一説には、妻子すら捨てた自らを嘲り、わしなど道端の糞だ、道糞(どうふん)だ、とも言っていたという。


 南京町は、神戸華僑の中華街。
 この一角だけ、世界が違う。お店では、中国語が飛び交う。
 北京菜館の1,200円のセットメニューで、色々味わってみた。

 小磯良平東山魁夷は、どちらも有名な画家。(東山魁夷の方が、より著名)
 前者が洋画家で、後者が日本画家。
 タイトルは忘れたが、会場の一番最後の東山魁夷の大作に引き込まれた。
 水墨画のようなタッチで、霧にけむる山峡の画。肌にじっとり、水滴がつきそうなほどだった。
 (どなたか作品名をご教授いただけたら幸いです)

 三宮神社は、神戸の大丸の北にある、小さな神社。
 ここで起こった神戸事件の方が、幾分か知られている。
 簡単に言えば、もうひとつの生麦事件。
 ただし、外国人と悶着を起こしたのは、薩摩藩ではなく備前藩(すでに新政府側として活動)であり、結果は薩英戦争のようなドンパチではなく備前藩士の公開切腹
 開国の方針を固めていた新政府は、列強諸国に圧され、やむなく六ヶ国の立会いによる切腹を受け入れたのだった。人身御供となった備前藩士・滝善三郎はすべての責を負って見事に切腹し、外国人に「ハラキリ」の強烈な印象を与えた。

 北野は三宮の山手。一番上に、北野天満神社がある。
 京の北野天満宮と名が似ているが、もちろんこの天満宮から分霊したもの。
 平清盛が、平安京から福原に遷都しようとしたときに、勧請したそうだ。
 北野天満神社の展望台(50円)からは三宮方面が一望できる。
 傍には、維新以後に居留地から移り住んだという異人館の建造物群がある。
 風見鶏の館、萌黄の館、うろこの家、みなお洒落なのだが、入館料を惜しんで入らなかった。
 「こーゆーのは、外から見てこそやで」と、無理に思い込みながら…。
 異人館のひとつに、神戸北野美術館があった。
 それは実質、永田萠美術館だった。播州人の相方は、「この人、加西の人やのに、こことか京都とかばっかりお店出してるんよ」とぼやいていた。


 おすすめスポット タグ 羽柴秀吉の侵掠 神戸南京町 北京菜館 三宮神社 タグ 神戸北野


 20.6.10(火)

 柳田國男だ、と思ったら柳田邦男だった。


 20.6.9(月)

 ユーチューブで、谷山浩子の鳥籠姫(烏龍姫ではない!)を見つけた。
 使用イラストは、きたのじゅんこ
 …ら、どういうわけだか、サガフロンティアのアセルス編を連想した。
 連想したところで、適当に落書きしてみた。考証はしてない。

 いずれも、鳥籠に収まったままでいるようなタマでは無いのだが。

 アセルス編 半妖エンド


 20.6.8(日)

 5/26の話。
 元讀賣のゴンザレスが落雷により死亡し、讀賣のゴンザレスがドーピングにより解雇された。
 前者は、ジェレミー・ゴンザレス(登録名「G.G」、H19.7/1参照)。まさか落命するとは…。
 後者は、ルイス・ゴンザレス。勝負強い、いい打者だった。本当に残念でならない…。
 これから毎年5月26日を、ゴンザレス受難日と呼ぶことにする。


 20.6.7(土)

 逢引きと粗挽きは、響きが似ている。


 20.6.6(金)

 5/11の給油記録。
 ① 吉備路:415.5km(うち、高速道路329km)
 ② 姫路 加古川:185.9km
 …を含む。

 652.8km(うち、高速道路329km) 13.9km/l(燃費計) 49.69L 給油 レギュラー@152円
 652.8÷49.69=13.137… → 13.1km/l(満タン法)
 13.1-13.9=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される。

 さらに、5/11の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②を遠出、残りを ③街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.8km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  415.5km 15.2km/l → 14.4km/l 28.854…L
 ②  185.9km 14.5km/l → 13.7km/l 13.569…L
 ③  51.4km       →       7.266…L
 計 652.8km 13.1km/l → 12.2km/l 49.69L

 ①  415.5km 15.2km/l → 14.4km/l 28.854…L
 ②  185.9km 14.5km/l → 13.7km/l 13.569…L
 ③  51.4km       → 7.0km/l 7.266…L
 計 652.8km 13.1km/l → 12.2km/l 49.69L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、51.4km走って 7.0km/l。うむむ、ちょっこだけ上向き。


 20.6.5(木)

 たまに、徒歩でその土地を周るときがある。ときには、10km以上。
 徒歩はせいぜい6km/hくらいのものだが、優れていることもある。

 ガソリン不要、健康に良い、など挙げられるが、私が重視するのは、きめ細やかに見て周ることができる、ということ。

 一歩一歩、少しずつ風景が変わる。遠くのものが近くなる。
 あのお堂は何だろう? この地名は~に由来するのか? ここの田植えはいつだろう?

 色んなことを思いめぐらしながら歩くから、適当に知らない道を歩いても、帰宅してから地図を引っ張り出して照合すると、すべてのルートが一々思い出せる。

 道を、道の景色を、道にあるものを記憶する、という点については、車よりも自転車、自転車より徒歩の方に軍配が上がるだろう。

 だから、たまに徒歩で周る。
 2時間も歩けばオニギリ(105円)を食べるので、実は燃費は悪いのだが。


 20.6.4(水)

 先月上旬の話。
 播州の姫路市書写の里・美術工芸館、ベーカリーぱんだ、喫茶カントリーロード、鶴林寺へ行った。

 姫路市書写の里・美術工芸館は、書写山のふもとにある工芸関連の美術館。
 この日は、宮脇綾子アプリケ展を見に行った。
 宮脇綾子は、布地を縫い合わせて表現するアプリケ作家。
 相方イチオシだったのだが、私もすっかり気に入った。
 藤城清治の影絵のように立体感があり、題材が主婦の視点で面白い。
 構成自体がしっかりしてる。と思ったら、やはり色紙に描いたイラストも巧かった…。
 藤城清治も一級の画才があるし、絵の具を使わない表現でも構想力がモノをいうのか。

 書写山のふもとを去ろうとしたとき、ふと左に ヤ ギ が 見 え た 。
 何かの見間違いかと疑いつつUターンし、確認すると、本物のヤギだった。


 ベーカリーぱんだは、書写の里から五分ほど東にあるパン屋。
 店名と看板に惹かれ、店に入った。
 クリームパンをひとつ買った。美味しかった。並以上。

 喫茶カントリーロードは、志方と加古川の間にある喫茶で、かつめしもある。
 かつめしは、カツがちょっこり薄かった気がした。orz

 鶴林寺は、聖観音立像(あいたた観音)で有名な寺。
 入口スグで入山料500円を支払うため、例え宝物拝観料込みとはいえ、敷居が高い。

 おすすめスポット タグ 書写山 タグ 加古川

 走行距離185.9km 燃費計14.5km/l 高速道路不使用


 20.6.3(火)

 岡山の話を書いているうちに、中村彰彦の豪姫夢幻を思い出して、パラパラ読み返してみた。
 前田利家と松の間に生まれ、羽柴秀吉の養女となり、同じく養子の宇喜多秀家の妻となった豪姫。秀吉とねねに愛され、最愛の夫を得、子も三人もうけ、幸福のただ中にいたはずなのに、それは夢か幻のごとく…。\(^o^)/

 そして、――ごうひめむげん――から、スーパーマリオ無限1UPを連想した。(ノ_・。)
   100   200   400   800   1000   2000   4000   5000   8000   1UP  …
 ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ  ピョコ …



 20.6.2(月)

 先月上旬の話。5/19参照。
 吉備の鬼ノ城、備中高松城、蛙ヶ鼻堰堤跡、吉備津神社、吉備津彦神社、倉敷美観地区、播州のよかたんへ行った。その日の午前三時半に給油(5/31参照)してから、一路吉備へ。

 「もし大和にまつろわぬ者あらば、これを討て」
 大和のミマキイリビコ(第十代 崇神天皇)は、北陸にオオビコ、東海にタケヌナカワワケ、丹波にタニハノチヌシ、山陽にイサセリヒコ、あわせて四名の将軍(いくさのきみ)を遣わした。
 オオビコとその子のタケヌナカワワケは、それぞれの道を平定後に合流し、ゆえにその地を會津という。
 さて、山陽道には、ウラという鬼(百済の王子ともいう)が吉備の鬼ノ城を根城に辺りを治めていた。
 吉備の中山に着いたイサセリヒコは、鬼ノ城のウラを狙いすまして弓弦を引き絞り、矢を放った。
 するとウラは岩を放り、矢はむなしく叩き落された。
 ならば、とイサセリヒコは、次は二本の矢を同時につがえ、放った。
 またもやウラは岩を放り、矢の一本は落ちたが、次の瞬間にもう一本の矢がウラの左眼を貫通した。
 ウラは雉に化けて逃げ、イサセリヒコは鷹に化けて追った。次にウラは鯉に化けて逃げ、鵜に化けたイサセリヒコに捕らえられた。
 イサセリヒコは、ウラの首を刎ねた。
 ところが、ウラの首は唸り声をあげ続け、犬に喰われて骨となっても唸り、釜の下深く埋めて封じてもなお、唸り声はやまなかった。
 ある日、困り果てたイサセリヒコの夢にウラが現れ、告げた。
 「妻のアソヒメに神饌(しんせん、神に奉げる供物)を炊かしめれば、われが釜を鳴らして吉凶を告げよう」
 阿曽郷の祝(はふり、神職)の娘のアソヒメが釜を炊いたところ、唸り声はついにやんだ。
 かくして吉備を平定したイサセリヒコは、キビツヒコと名乗り、281歳のとき吉備の中山に没した。


 朝一番、鬼ノ城に着いた。鬼ノ城は、「きのじょう」と読む。
 キビツヒコ伝説に登場するウラの根城ともいわれるが、その存在は長く忘れ去られていた。
 実際には、朝鮮式の山城。(ウラは百済の王子ともされるので、この点は合致する)
 山頂を含む高地一帯を2.8kmの城壁で囲み、その囲われた面積は540m四方相当の広さ。
 城郭内には池や製鉄炉まであった。城壁の尾根をまたぐところには水門をつくり、排水も整っていた。
 戦国時代の小さな山城が、広さ数十mの円形のスペースが山頂からポンポンと配置されているだけだから、規模も縄張りも構造も、まったく違う。まさに異国の風。
 日本にある古代の朝鮮式山城のうち、文献に残っていないものを、神籠石というらしい。
 神籠石(こうごいし、16ヶ所)の分布は、次の通り。

 北九州を中心に、瀬戸内沿岸と続く。
 663年、白村江の戦いにて唐・新羅に敗れた天智天皇は、百済の亡命貴族の技術により、水城や山城を築かせ、防人を配した。記紀等に記される古代山城もまた、神籠石と同様、北九州から瀬戸内沿岸にあり、ドン突きには高安城があった。
 仮に大陸と半島の勢力が侵入しても、筑紫の北で食い止め、少なくとも橋頭堡をつくらせず、瀬戸内を進んできても途中の沿岸の上陸(定住)をゆるさず、最悪難波まで寄せられても、絶対に生駒で死守する―――そういう意図がくっきり見えてくる。
 神籠石がなぜ記録から漏れたのかはわからないが、朝鮮式である点とその分布から、国家存亡の危機を感じた天智天皇がつくったとしか思えない。
 神籠石が単に各地に割拠した渡来系の豪族がつくった城だとするなら、もう少し違う土地にも分布していいはずだからだ。

 クマバチがブンブン飛び回る(←ウラの怨霊!?)鬼ノ城を降りた後、備中高松城と堰堤跡へ行き、次に吉備の中山へ行ったのだが、テーマ毎に書きたいので順を入れ替えて書く。

 吉備津神社吉備津彦神社は、いずれもキビツヒコ(吉備を制圧したイサセリヒコの尊称、カルタゴを倒したスキピオが「アフリカヌス」の尊称で呼ばれたようなものか?)を祀る神社であり、前者は吉備の中山の西、後者は東にある。
 吉備は遥か昔に備前、備中、備後、美作に分かたれたのだが、吉備の中山は、備前と備中の国境(くにざかい)であり、従って吉備津神社は備中、吉備津彦神社は備前にあることになる。

 吉備津神社には、鳴釜神事が今も残っており、受付で頼むと執り行ってもらえるそうだ。
 私が御釜殿に入ったとき、偶然にも神事が終わった直後で、湯気の沸き立つ蒸籠を乗せた釜が据えられていた。でっぷりとした貫禄のある巫女さん(鳴釜神事を執る巫女、阿曽女(アソメ)?)に、色々教えていただいた。
 蒸篭を乗せた釜に水を張ってボンボン焚いて、沸騰して湯気が出ると、釜が鳴り響くときがある。その釜の唸りを聞いて、自分で感じたままに吉兆を判断するのだという。
 吉備津神社には、キビツヒコがここから弓矢を射てウラを征伐したことから、弓道が盛んであり弓道場もあった。この日も弓道の大会があったようで、高校生(?)の弓道部員が大勢集まっていた。弓道着姿は、男も女も凛々しいものだ。

 吉備津彦神社へ入ると、その駐車場の上空に鯉のぼりが泳いでいた。
 大きな灯篭のある一段上に、本殿があった。
 吉備津神社と比べると人も少なかったり、珍しい神事やエピソードは無かったが。
 社務所でパンフレットと買おうとしたとき、奥のポスターに「神宮大麻」の文字を見かけ、「うわ、タイマやって。カンナビスかいな、アブな~」とか言い合っていると、お釣りを持ってきた若い巫女さん(☆☆☆☆☆)が、私の手にお釣りをのせながら「これは、伊勢神宮のお札のことなんですよ」と丁寧に教えてくれたのだった。赤っ恥。だけど、イイ。

 古代吉備篇からテーマは一転、戦国備中兵乱篇。
 備中松山城と岡山城と後楽園は、今回の取材以前に行った場所。

 戦国時代、旧態依然とした小戦を繰り返していた備中が、大きな流れに飲み込まれるときが来た。
 備中の豪族・三村家親は、毛利氏を後援を得て備中を統一。
 備中松山城を本拠として戦国大名に脱却し、そして備前への侵入を試みた。
 備前の浦上氏の家臣・宇喜多直家は、三村家親の軍勢に対抗する兵力を持たず、藁にもすがる思いで鉄砲名人の遠藤兄弟を刺客として送り込み、結果、家親暗殺に成功した。1566年のこと。
 家親の後を継いだ三村元親は、翌年に弔い合戦を宇喜多氏に仕掛けるも敗北した。
 それから数年、毛利氏を頼む三村氏と浦上氏に属する宇喜多氏との間で、一進一退の戦いが繰り広げられた。
 1574年、毛利氏は、主家の浦上氏と対立した宇喜多氏と同盟し、ために、宇喜多氏を仇とする三村氏は織田氏と結んだ。
 毛利氏は中国の兵を催し備中を攻め、三村氏の諸城は次々落とされ、1575年、毛利勢に包囲されていた備中松山城の三村元親は切腹して落城、三村氏は滅びた。
 毛利氏は備中を掌中に収め、宇喜多氏は主家の浦上氏に取って代わって備前の主となった。
 しかし、1578年から、織田氏の臣・羽柴秀吉の侵掠が本格化したのだった。

 1577年   赤松広秀(斎村政広)の龍野城/太田垣氏の竹田城、開城
 1578年3月 羽柴秀吉、別所氏の三木城を攻撃する
 1578年7月 毛利氏の攻撃により、織田方の尼子残党が籠城する上月城、落城
 1579年   織田氏の攻撃により、波多野秀治が籠城する八上城、落城
 1579年5月 織田氏の攻撃により、淡河城、落城
 1579年10月 備前の宇喜多直家が、毛利氏から離れ、織田氏に服属する
 1579年11月 織田氏の攻撃により、荒木村重が籠城する有岡城、落城
 1580年1月 三木の干殺し 毛利氏に与する別所長治が切腹し、三木城開城
 1581年   鳥取の渇え殺し 毛利方の吉川経家が切腹し、鳥取城開城
 1582年   高松城の水攻め 毛利方の清水宗治が切腹し、高松城開城

 羽柴勢の攻撃の矢面に立たされた宇喜多氏は織田氏に味方し、羽柴秀吉の我慢強い城攻めと調略を前に、毛利氏の勢力はじりじり圧されていた。
 1582年、羽柴秀吉は、毛利氏の家臣・清水宗治が籠もる備中高松城を包囲した。
 平城であっても沼に囲まれ攻めにくい高松城を見て秀吉は、長大な堰堤をつくり、川から水を引き入れ、水攻めにした。
 毛利氏の後詰、小早川隆景と吉川元春の大軍は、湖に浮かぶ島となった高松城を救う手立てもなく、高松城の西側の山に陣して、羽柴勢と睨み合いが続いた。
 秀吉の陣で、一人の男が捕らえられた。歴史上無名の男であるが、毛利の陣に伝えようとしたその情報は、驚くべきものだった。
 「信長、信忠、本能寺ニテ討チ取リ申シ候」
 羽柴秀吉の主君の織田信長と嫡男の信忠が、家臣の明智光秀に討たれたのだった。
 秀吉は情報が毛利方に伝わらぬうちに有利に和議を調え、高松城の兵の助命の代償として、城将・清水宗治は見事に湖上の切腹を遂げた。
 毛利氏と和睦し後顧の憂いを断った秀吉は、山崎にて明智光秀を破り、抜群の軍略と知略で織田氏の権力を簒奪し、豊臣の姓を賜り天下人となった。
 毛利氏の当主の毛利輝元とその家臣の小早川隆景は、豊臣政権の中で重きをなした。
 豊臣氏が徳川氏に天下の権を奪われた関ヶ原の合戦に際しては、毛利輝元は大坂方の大将に担がれたものの何を為すでもなく、小早川秀秋(豊臣秀吉の甥、小早川隆景の養子)は関ヶ原の戦場で返り忠を図り大坂方に仇なした。
 宇喜多直家は備中高松城攻めの前に幼い嫡男を秀吉に託して病死し、子は長じて秀家と名乗って秀吉の女婿となり、関ヶ原の合戦では大坂方の先鋒として獅子奮迅の働きを見せた。


 備中高松城は、羽柴秀吉の中国攻めのクライマックスとなった舞台。
 讃岐にも高松城(玉藻城)があるため、区別するため「備中」をつけている。
 同様の例は、備中松山城と伊予松山城が有名で、両城ともに木造の天守閣が現存する。
 城跡の駐車場に停めて周りを見渡すと、広々とした田園風景が広がり、南には汽車が走っていた。(JR吉備線)
 城跡は、水辺の花が咲き誇る公園として整備されていた。
 本丸の周囲の堀には、枯れた蓮が沈んでいた。蓮の季節なら、さぞ綺麗だったろう。
 この城跡の蓮は、宗治蓮という。
 戦国の世も過ぎ去り廃城となった高松城には、「蓮池」の地名が残っていた。
 昭和57年に岡山市が歴史公園として沼を復元したところ、四百年間眠っていた蓮が目覚め、花を咲かせたという。二千年の大賀ハスとまではいかないが、悠久な話である。

 蛙ヶ鼻堰堤跡は、高松城水攻堰堤跡のうち、最も東の山と接する部分にある。
 堰堤から東を羽柴勢三万名が守り、後詰の毛利勢四万名は川を挟んで西の山々に布陣した。両軍勢の間には、五千名が籠もる高松城が、湖上に浮かんでいた。
 毛利方とすれば堰堤の一部さえ毀せば良いではないか、と思うが、敵前の渡河をしなければならないし、土木の達者な秀吉のことだから、物理的に有効な備えは抜かり無かったろう。

 さて、ここでまた兵力について検討してみたい。3/29、4/6参照。
 安土桃山時代の太閤検地(石高の資料)では、全国で1,850万石ちょい。1万石あたり250~300名の兵を出せた。
 周防・長門・安芸・石見・出雲・隠岐・備後・備中・伯耆・因幡、これらすべて合計すると、およそ135万石。意外と少ない。
 毛利氏中国十ヶ国の潜在動員兵力は、
 135×250=33,750   外征可能な兵力は、どう頑張っても三万名。
 備中兵乱記における「八万」の記述は、あり得ない。
 備中高松城の清水宗治の五千という数字も疑問だ。
 備中は、一国で18万石。
 18×250=4,500
 しかし、備中にはもちろん高松城だけでなく、他にいくつも城はある。
 例え高松の地が備中の他地域に比べ優秀な米どころだったとしても、せいぜい一国の三分の一程度ではないか。(数字に根拠は無い)
 すると、高松城には千名前後の、多くても千五百名の兵が籠もっていたのだと考える。
 他の人数は、武士たちの妻子や領民だろう。兵糧攻めが堪えるわけだ。
 攻め手の羽柴秀吉の兵力について。秀吉の領地は江北の長浜12万石だから、
 秀吉の直属の兵の潜在動員兵力は、
 12×250=3,000   三千名。こんなもの。
 しかし、織田氏にとって当時最大の敵であった毛利氏を攻めるため、大勢の与力(直接の家来ではないが、指揮下には入る)がつけられたのだろう。備前の宇喜多氏も従属させている。
 本能寺の変後の山崎の合戦においても、一万数千名の明智光秀の軍勢を一気に屠っているから、羽柴秀吉三万名のくだりは、納得ゆく。

 鬼ノ城 → 備中高松城 → 水攻堰堤跡 → 吉備津神社 → 吉備津彦神社
 これだけ周ったところで、十時半になった。
 最後の目的地、倉敷美観地区へ向かったが、倉敷市街に入るや、渋滞に巻き込まれた。
 てくてく歩いて美観地区に着いたのは、ちょうど正午だった。

 倉敷美観地区は、近代前の景観を保存している地区。掘割に柳の並木が特徴的。
 実は、この美観地区に限っては、三回目の訪問。
 真っ先に、お昼のざる蕎麦を食べてから、ぶらぶらと色んなお店を見て回った。
 通りはたくさんの人、大繁盛だ。狭い界隈に、ごった返している。
 犬猫屋敷に、ねこ耳をつけた店員さんがいた。 け し か ら ん !

 おすすめスポット 備中松山城 岡山城 後楽園 備中高松城 蛙ヶ鼻堰堤跡 倉敷美観地区 鬼ノ城 吉備津神社 吉備津彦神社

 走行距離415.5km(うち、高速道路329km) 燃費計15.2km/l


 20.6.1(日)

 温家宝と宝塚温泉は、字面が似ている。


 20.5.31(土)

 5/4(未明)の給油記録。
 ① 今田(ドーノ):121.4km(うち、高速道路28km)
 ② 明石 吉川:126.3km(うち、高速道路43km)
 ③ 今田(一眞坊):99.2km
 …を含む。

 357.6km(うち、高速道路71km) 13.8km/l(燃費計) 27.60L 給油 レギュラー@149円
 357.6÷27.60=12.956… → 12.9km/l(満タン法)
 12.9-13.8=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される。

 さらに、5/4(未明)の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②③を遠出、残りを ④街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  121.4km 13.8km/l → 12.9km/l 9.410…L
 ②  126.3km 15.3km/l → 14.4km/l 8.770…L
 ③  99.2km 13.1km/l → 12.2km/l 8.131…L
 ④  10.7km       →       1.287…L
 計 357.6km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L

 ①  121.4km 13.8km/l → 12.9km/l 9.410…L
 ②  126.3km 15.3km/l → 14.4km/l 8.770…L
 ③  99.2km 13.1km/l → 12.2km/l 8.131…L
 ④  10.7km       → 8.3km/l 1.287…L
 計 357.6km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、10.7km走って 8.3km/l。あまり参考にならないかも。
 さて、この日の未明に給油したのは、吉備路への出撃に備えるため…。


 20.5.30(金)

 わきげだ、と思ったら わけぎだった。


 20.5.29(木)

 今月上旬の話。5/19参照。
 一眞坊、ぬくもりの郷、ブリランテへ行った。
 GW真っ只中だったので、高速道路は回避。しかし、志手原手前で渋滞した。orz イヤァァ

 一眞坊は、美味しいそば屋さん。「いっしんぼう」と読む。
 外観も内部も古い民家、かざりの水車まである。
 ここの鴨南蛮のかもは、やわらかいレアで、絶品だった。
 お店の奥に水鳥(かも?)が二羽いたが、これはどうやらペットのようだ。

 おすすめスポット 一眞坊 ぬくもりの郷 ブリランテ

 走行距離99.2km 燃費計13.1km/l 高速道路不使用


 20.5.28(水)

 今月上旬の話。5/19参照。
 明石市立天文科学館、たこ磯、五色塚古墳、豊助饅頭、よかたん、西山牧場へ行った。

 明石市立天文科学館は、日本標準時子午線の上にある科学館。3/3参照。
 プラネタリウムもある。展望塔からは数十km先までパノラマで見渡せる。

 親戚の子を連れてプラネタリウムを見た後、たこ磯で玉子焼きを平らげ、山陽電鉄に乗って霞ヶ丘駅にて下車、五色塚まで歩いた。

 五色塚古墳は、石葺きを再現したことで有名で、教科書にも乗っている。
 兵庫県最大の前方後円墳で、全長は194m。
 まるで、海からの使者を迎え入れる、あるいは、古墳の主を海へ送り出す…ような配置。
 瀬戸内海の急所の明石海峡付近だけに、海運を握っていた豪族だったのだろう。

 温泉に入ろう、ということになりよかたんへ向かい、途中、お土産用に豊助饅頭を買った。
 温泉の帰り、西山牧場に寄ってジェラートを食べた。空はすっかり薄暗くなっていた。



 おすすめスポット 明石市立天文科学館 柿本神社 明石城 タグ 玉子焼 五色塚古墳 豊助饅頭 よかたん 西山牧場

 走行距離126.3km(うち、高速道路43km) 燃費計15.3km/l


 20.5.27(火)

 みんカラの画面で、何か見慣れないものがあった。 → みんカラびより
 クリックすると、オークション紹介の漫画だった。
 ふと、漫画だけ読んでほかした進研ゼミの勧誘を思い出した。


 20.5.26(月)

 先月下旬の話。5/19参照。
 ドーノ、陶の郷、兵庫陶芸美術館、ぬくもりの郷、ブリランテへ行った。

 陶の郷は「すえのさと」と読み、丹波立杭焼で有名な篠山今田町の施設。
 南北5kmほどの谷あいに、5、60の窯元が並ぶ立杭。
 その窯元が小さなブースに作品を出展している窯元横丁は、見ていて時間を忘れる。
 また、陶芸教室では、手ひねりで陶器をつくることができる。焼き上がりは、数週間後。

 兵庫陶芸美術館は、丹波立杭焼で有名な篠山今(以下省略)
 陶の郷の、ほんの数百m北にある。
 この日、縄文-いにしえの造形と意匠-展(3/15~6/1)が催されていた。
 火焔土器やら遮光器土偶(シャコちゃん)やら、一万年に及ぶ縄文時代の土器の数々を、惜しみなく借り集めていた。
 現代の前衛芸術家が束になっても敵わない、奇想天外なカタチ
 しかし、ヒビ割れの補修跡がある通り、縄文人にとっては芸術でなく実用品(中には祭祀具もあろう)だったのだ。ヒビ割れの両側にそれぞれ穴を穿ってあった。紐で両方の穴を括り、ヒビが広がらぬようにするためだろう。
 遮光器土偶を初めとする土偶は、ある部分を毀してから埋められる例も多かったそうだ。
 身体の治したいところを毀して回復を願った、という説もある。
 現代よりも死が身近な縄文人は、人知外のすべてを祈りに賭けたのだ。

 縄文展は、浮野一押しである。丹波や阪神圏内なら、わりと近い。
 入館料は900円と高いが、ドーノその他周辺の店等に割引券(→700円)が置いてある。
 さらに、讀賣主催のため、讀賣の販売店にねだれば招待券(→0円)がもらえる可能性もなきにしにあらず、だ。 

 おすすめスポット ドーノ 陶の郷 兵庫陶芸美術館 ぬくもりの郷 ブリランテ

 走行距離121.4km(うち、高速道路28km) 燃費計13.8km/l


 20.5.25(日)

 ドラゴンクエストⅤのビアンカを思い出した(5/23参照)ので、落書きしてみた。

 いつも頭部しか描いてないから、全身のバランスがうまく描けない。orz チメイテキ…
 というか、デッサンとかそういうのがよくわからんので、デッサン力とか構想力とかも無い。
 うまく描きたいなら、姿勢・角度・体の部分部分を意識して描きまくるしかないのかな。。

 デッサン力といえば、森薫のソレは素晴らしいと思う。


 20.5.24(土)

 先月下旬の話。5/19参照。
 北摂の有馬富士公園へ行った。親戚のチビッ子を半日 放し飼い 遊ばせて、帰った。

 走行距離54.0km 燃費計14.1km/l 高速道路不使用

 4/28の給油記録。
 ① 北播多可郡:194.0km
 ② 播州播磨町:127.2km
 ③ 加東郡 篠山:150.6km(うち、高速道路28km)
 ④ 有馬富士公園:54.0km
 …を含む。

 577.4km(うち、高速道路28km) 13.1km/l(燃費計) 47.31L(レギュラー)給油 @124
 577.4÷47.31=12.204… → 12.2km/l(満タン法)
 12.2-13.1=△0.9

 ∴燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される。

 さらに、4/28の給油記録につき、街乗りの燃費を算出する。
 全体の距離を、①②③④を遠出、残りを ⑤街乗り…と別ける。
 燃費計は、満タン法より、0.9km/l前後良く測定される…と想定。

 ①  194.0km 14.5km/l → 13.6km/l 14.264…L
 ②  127.2km 14.1km/l → 13.2km/l 9.636…L
 ③  150.6km 14.7km/l → 13.8km/l 10.913…L
 ④  54.0km 14.1km/l → 13.2km/l 4.090…L
 ⑤  51.6km       →       8.404…L
 計 577.4km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L

 ①  194.0km 14.5km/l → 13.6km/l 14.264…L
 ②  127.2km 14.1km/l → 13.2km/l 9.636…L
 ③  150.6km 14.7km/l → 13.8km/l 10.913…L
 ④  54.0km 14.1km/l → 13.2km/l 4.090…L
 ⑤  51.6km       → 6.1km/l 8.404…L
 計 577.4km 13.1km/l → 12.2km/l 47.31L


 ∴街乗りの燃費(満タン法ベース)は、51.6km走って 6.1km/l。元の木阿弥。。


 20.5.23(金)

 ビアンカだ、と思ったらビアンテだった。


 20.5.22(木)

 今月上旬の話。
 金スマという番組で、村下孝蔵が紹介されていた。(リンク「ウキウキ動画-永遠の歌人」参照)
 代表曲初恋ばかりが注目されていたが、他にも名曲はたくさんある。
 私はTVで踊り子に聴き惚れてアルバム林檎と檸檬を買ったが、収録曲のうち真っ先に気に入ったのは、春雨いいなずけだった。(初恋は、それ以前に聴いたことがなく、正直パッとしなかった。最初のうちは…)
 最近は、ニコニコ動画というサイトで視聴でき、ありがたい限りだ。以下、こちらより引用。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「いいなずけ」 メロディーと詞の美しさに、ふるえた。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「終わらない君の夏」 浮かびあがる情景。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「北斗七星」 けしからんほど艶っぽい。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「だめですか?」 なんだか泣きそうになる。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「すみれ香水」 おくれ‐げ【後れ毛】女性が髪を結い上げたとき、襟元に残って垂れた短い毛。
【ニコニコ動画】村下孝蔵「この国に生まれてよかった」 国歌。


 う~ん、やっぱりアレだ。
 村下孝蔵の歌の世界と、二階堂のCMの世界(4/5参照)と、相通じるものがあるなぁ…。
 この前、どこぞの誰かにカヴァーされた初恋を、一度ラジオで聴いた。胸に迫るモノがちっとも感じられなかったが、村下孝蔵と村下孝蔵の歌が普及するなら、あえて許容したい。


 20.5.21(水)

 先月下旬の話。5/19参照。
 播州清水寺、ドーノ、雲部車塚古墳、ぬくもりの郷へ行った。

 播州清水寺については、5/10参照のこと。
 シャクナゲが満開になったり、数々の変種のサクラが咲いたりして、綺麗だった。


 雲部車塚古墳は、丹波地方最大の前方後円墳で、記紀に登場するタニハノチヌシ(キビツヒコと同様、四道将軍のひとり)の墳墓だという説もある。1/21参照。
 兵庫県立考古博物館で復元展示されていたように、古代の鉄製の黒い甲冑が五領、その他の武具が多数石室に収蔵されていたのが、この車塚古墳だったのだ。
 とにかく、この地方最大級の武力と民を持っていた豪族、ということに間違いは無い。
 濠をぐるりまわってみると、しげみにヘビがいた。(伸ばすと、1mはありそうだった)
 驚いて後ずさると、ヘビは濠に飛び込み、器用に泳いで古墳に上陸した。
 アレはこの古墳の主の怨念だったのか、古墳島にどれだけの生物が生息しているのか、そんなどうでもいいことを考えながらぬくもりの郷へ向かった。


 おすすめスポット 播州清水寺 ドーノ 雲部車塚古墳 ぬくもりの郷

 走行距離150.6km(うち、高速道路28km) 燃費計14.7km/l


 20.5.20(火)

 先月下旬の話。5/19参照。
 加古郡播磨町の兵庫県立考古博物館その他へ行ってきた。

 最初に、通り道の三木の志染にて、志染の岩室へ寄り、志染の金水を見た。H19.13/2参照。
 ヒカリモの残骸…。
 ちなみに、今年の初め1/6に確認した金水は、以下のように輝いていた。
 朝の陽を浴びて。

 次に、通り道の加古川河畔の喫茶スゥイングにて、加古川名物かつめしを食んだ。
 …以前立ち寄った喫茶ニュースの方が美味しいかも、いやいや、好みの範囲内か。

 兵庫県立考古博物館は、体験モノが豊富な歴史博物館。
 親戚の子と、組み紐勾玉をつくってみた。懸命に取り組んで、満足気だった。
 展示物に、古代船ヒボコがあった。
 白村江の戦いでは、日本は唐・新羅を超える数百艘もの船を揃えた。
 しかし、敢えなく敗れ去り、四百艘が海の藻屑となった。
 おそらく、このヒボコ程度の小さな船ばかりだったのではあるまいか。
 もっとも、戦国期の村上水軍は、小さな小早船の群れで敵を翻弄したのだが。(瀬戸内限定)
 篠山市の雲部車塚古墳で出土した黒い甲冑を復元した武将の人形が格好良かった。
 錣や大袖などは黒塗りの鉄板を重ね合わせ、兜からは鳥の尾羽が三本伸び、当世具足に負けない素敵さだ。
 古代の甲冑と源平の頃の大鎧とは、そのデザインに大きな開きがありすぎる。
 大君の時代から律令国家の時代、武器や甲冑がどう変化したのかも気になるところ。

 おすすめスポット 志染の岩室 喫茶 スゥイング 喫茶 ニュース 兵庫県立考古博物館

 走行距離127.2km 燃費計14.1km/l 高速道路不使用


 20.5.19(月)

 4/25~5/6のGWの話。
 この間、都合七度、すべて日帰りで出撃した。
 ほとんどが近場で、県外に出たのは、吉備路の一度だけだった。

 GWの走行距離合計 1094.2km(うち、高速道路428km)


 20.5.18(日)

 船団だ、と思ったら ICの料金所だった。


 20.5.17(土)

 以前、みんカラで不審なユーザーを見たので、カービューに改善依頼したことがある。
 その処分は即刻削除だったようだが、例の件と同一の登録者をまた見かけた。

 なぜそんなに目に入るのかというと、ブログ本文の下にキーワードを羅列して、何らかの語で検索かけた者を呼び込んでいるから。私は燃費で引っかかった。
 愛車登録はしておらず、内容は意味不明。
 そして、似たような内容のブログを定期的にアップし続けている。
 意図、目的の一切が謎である。また依頼しても、結局はムダなのか。。


 20.5.16(金)

 先月中旬の話。
 播州の室津と龍野へ行ってきた。龍野については、後日に書くので措いておく。

 龍野から10km南下すると、岩見に突き当たる。岩見の東は、あの綾部山梅林である。
 ここを西へ右折し、海岸沿いの斜面七曲りをくねくね走り、3、4kmで室津だ。

 室津は、奈良時代の行基により整備された摂播五泊(せっぱんごはく)のひとつ。
 摂播五泊とは、河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、室。
 室の由来は、「此泊 防風如室」―――部屋の中のように波が穏やかなミナトであったこと。
  津 ツ
  江 エ
  泊 トマリ
  浦 ウラ
  済 ワタリ
  湊 ミナト
 …などの字は、みな要するに船着場やそれに適した地形を意味する。
 ちなみに、ミは水、トは門、ミナトとは水の門の意。

 さて、七曲りから続く海岸沿いの道は、数十mの高いところを通っており、室津の地へ降りるには、大きなスロープのような道を降りる。
 降りる前にすでに室津を一望できるのだが、パッと見たその視野の中に簡単に納まるほど、小ぢんまりしている。
 青い空。白い雲。ふりそそぐ光。きらめく水面。
 小船が寄り合い、湾いっぱいにある種の雰囲気を湛えている。
 「湾は、意外に小さい。湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている」
 司馬遼太郎の言葉が、すべてを言いあらわしていた。


 岸壁沿いに歩いたとしても800mほどだったので、スロープ(?)下の駐車場から、歩いて探索することにした。
 先ずはここ歴史なりを予習してから、ということで、真っ先に室津海駅館に入った。
 室津海駅館は、江戸期の商家「嶋屋」の建物を改装してつくったもので、100mほど南にある室津民俗館と、両館共通300円で出入りできる。
 上代におこり、源平の戦いがあり、足利義満が立ち寄り、赤松氏と浦上氏が争い、また、参勤交代の大名たちや朝鮮通信史、オランダのシーボルトなどが宿をとった室津。
 想像以上に歴史の舞台に顔を出しているのに驚いた。
 江戸期には、狭い界隈だというのに本陣が六つもあった。(姫路は三つ)
 商家の嶋屋も、蝦夷のニシンの回漕でおおいに儲けた。
 ただしこの嶋屋は、明治以後の商売替えに失敗し、没落したという…。


 賀茂神社は、京の上賀茂神社(3/31参照)から分祀した神社。そもそも室津が、京の賀茂神社の御厨(みくりや、神への供物を賄うための社領)だったことによるそうだ。
 湾の南の突出部の丘へ登ると、右手にソテツの大群が見えた。
 野生のソテツとしては、これが最北端とのこと。
 ここの参籠所からの眺めを見てシーボルトは、
 「私が日本で見た最もすばらしい風景のひとつ」
 …と、感嘆したという。
 参籠所は閉まっていた(涙)ので、数十m外れから、播磨灘を眺めた。


 あまりに深い青に心うたれたのだった。。ええわぁ、室津。

 おすすめスポット 室津 室津海駅館/民俗館 賀茂神社 お好み焼 小嶋

 走行距離 約246km(うち、高速道路118km) 相方の軽自動車にて走破


 20.5.15(木)

 花見好き 桜が散れば 花水木

 ハナミズキ
 四月も半ば過ぎ去ると、桜もひらひら散り急ぎ、街はすっかりハナミズキにジャックされた。

 実は街に咲いているハナミズキは、アメリカハナミズキといって、北米大陸原産らしい。
 北米原産ということを知れば、なんだか悔しくなってきた。
 アメリカザリガニはどうして強くて大きいの?
 ミシシッピアカミミガメがどうして神社でふんぞり返ってるの?
 ブルーギ(以下省略)

 うぐぐ、書いてるうちにもっと悔しくなってきた。
 国産の誇り高きニホンミツバチよ、昆虫界最凶のオオスズメバチを熱殺するんだ!
 そしてセイヨウミツバチめ、ガジガジ噛まれて絶えるがよ(以下自粛)
 

 20.5.14(水)

 先々月中旬の話。
 京の北野天満宮と宝鏡寺へ行った。

 北野天満宮は、菅原道真を祀る神社。
 菅原氏は、イクメイリヒコ(垂仁天皇、H19.9/21参照)の御世にタイマノケハヤとの勝負に勝ち朝廷に仕えたノミノスクネの裔。H19.10/16参照。
 学者・政治家の菅原道真は、宇多天皇の信頼を得て朝廷の中に重きを成していたが、それを嫉む藤原時平の陰謀により、筑紫の大宰府に左遷された。すでに皇位を醍醐天皇に譲っていた宇多上皇さえ、これを止めることができなかった。

   東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな

 自邸を去る前に、名残惜しんで詠んだ歌は、あまりに有名である。数年後、道真は失意のうちに没した。
 道真の遺骸を牽いていた牛が足を突っ張り動かなくなったので、その場所を彼の墓とした、ともいう。
 さて、道真没後、京は次々に災厄に見舞われていた。日照り、疫病、皇子たちの相次ぐ病死、そして清涼殿を襲った雷―――。
 道真が怨霊となって祟っているのだ、と考えた朝廷は、道真の名誉を回復し、京の北野と墓所のある大宰府に祀ったのだった。

 今では、天神さんと親しまれ、学問の神様として受験生に大人気。
 境内に入ってみると、道真にゆかりの梅と牛がたくさんあった。
 突然、小鳥が梅の枝に止まり、次々と花をつつきはじめた。(蜜を食べてる?)
 一斉に、「わー、ウグイスや、ウグイスやで!」「ウグイスかわいー!」という声が上がった。
 しかしあれは、どう見ても、鶯色をしたメジロだった…。


 宝鏡寺は、別名人形寺ともいう尼寺。
 幾人もの皇女がこの寺に入っており、あの和宮も、幼少の頃この寺で遊んでいたとか。
 「ほうきょうじ、か~」
 …と言いながら、相方の鼻の頭の八尺下に目をやると、「もー!」と怒りはじめた。
 はてさて、なぜだろう。そうだ、天神さんの牛に憑かれたに違いない。


 コトコト揺られ、トコトコ歩いた古都めぐり。

 おすすめスポット 嵐電 野見宿禰神社 北野天満宮 宝鏡寺 湯たく山 茶くれん寺


 20.5.13(火)

 月刊ガンガンのザ・ドリフトガールを読んではじめてユーノス・ロードスターを知った者は、私だけではあるまい。


 20.5.12(月)

 燃費タグでいろんなページを覗いてたら、

 彦根ひこにゃん殺人事件なるタグが目にとまった。
 わー、面白そ♪ …と思ってクリックしたら―――自分の日記だった。orz


 20.5.11(日)

 先月の話。
 僅かな庭の草むしりをしていたら、ワラワラといろんな虫が活動していた。
 あまりに小さな彼らを眺めていると、一本の草さえ何やら巨木に思えてきた。
 僅かな庭の、大森林。
 向かいの壁は、世界の果て。


 20.5.10(土)

 先月中旬の話。
 播州の清水寺、ドーノ、北播多可郡のハーモニーパーク、ジェラテリアへ行った。

 播州清水寺は、西国三十三番のうち、第二十五番。
 その前の週のリベンジで行ったのだが、見事に満開だった。4/30参照。
 大講堂からは、38km以上先の明石海峡大橋と淡路島が見えた。ような気がした。

 ↑桜、石楠花、菫 etc…

 ↑播州清水寺の大講堂より、南南西、印南野方面。

 ↑南寄りを、拡大。

 ↑さらに解析。明石海峡大橋の主塔が見える。奥の島影は、淡路島。右手前の建造物群は、西神ニュータウンか。


 同じ県にありながら、今まで多可郡(現在郡は消え多可町)を意識したことがなかった。
 空が今より低かった頃、ひとまたぎ3町の巨人あまんじゃこは、しゃがまなければ天に頭がつっかえ、歩くこともままならなかった。
 明石のとある里から北へ行く途中、急に空が高くなり、思う存分背を伸ばすことができた。
 「ここは空が高い。たかじゃ、たかじゃ!」と、あまんじゃこは快哉を叫んだ。

 その語源説話がすんなり納得いくほどの、悠然とした広い谷。
 見上げると、上に落ちてしまいそうな高い空。はじめての多可の地が、気に入った。

 ハーモニーパークは、標高1,005mの千ヶ峰の中腹にある果樹園&キャンプ場。
 この日は、林檎の花が満開だった。とても可憐な、白い花。
 発電のための風車が一基、そびえていた。
 「風太」、スバル製である。→ SUBARU 15/40
 風がやむと、風を探して首を左右にふり、また羽根が回る仕組み。

 ジェラテリア ふれっしゅあぐり館は、ジェラートその他なんでもアリの、道の駅的存在。
 ここから風太が見えるし、風太のところからもここが見える。
 季節限定さくら味を味わって、多可の空をあとにした。


 おすすめスポット 播州清水寺 ハーモニーパーク ジェラテリア ふれっしゅあぐり館

 走行距離194.0km 燃費計14.5km/l 高速道路不使用


 20.5.9(金)

 転生前に描いた落書きに、簡単に色塗りしてみた。
 ああ無情(原作でなく、小学生向け伝記)より、コゼット成人後のマリウスとの出会い。

 

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