この記事は、
旧甲州街道2について書いています。
←郷土資料館「吉野宿ふじや」の内部。縁側を左手に見て、床の間の方を撮ったアングルだと、「この旅館イイ雰囲気ですねー」というカンジですが、詳しくは後述しますが、ココは郷土資料館です。残念ながら、現役の旅館ではありません。
神奈川県相模原市緑区吉野214
042-687-5022
10:00~16:00
年末年始と月曜日休館(月曜日が祝日の場合は開館し、翌日が振替休館)
入館料無料。駐車場もあります。上野原・甲府・諏訪方面左手側。
まず、
今日の「時事ネタ」的な話としては、「乗鞍スカイライン」が今日開通したということです。なにやら「雪の壁」がまだある模様で。時間が出来たら、今年は、「雪の壁」の中を走ってみたいな、という思いも。(一般車進入禁止でしたっけ???)
さて、
「甲州街道の変遷」として、
中長期的に、甲州街道には北から南へ、だんだんとルートが移動していく傾向があるらしい、(https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/16695861/)
大垂水の本線は廃れている。
大垂水峠にあったドライブインも今は廃れている。
代わって、国道412号(三ヶ木までは413号)の方が今は栄えていると思う。
それは無理もない。
国道412号は相模湖で20号と合流しているのだから。
恐らく現在は、例えば一般道で甲府に向かおうとする車とかでは、
20号のまま(大垂水本線)で走る車よりも、
412・413号(津久井湖経由)を通る車の方が多いのではなかろうか?
という話、
この「変遷」は、確かにあるだろう、と私は思っています。
この吉野宿ふじやを出て東に少し行くと、
「相模湖駅前」の交差点があり、
東京方面に向かう車の多くは、そこを右折してゆきます。
そういう「変遷、甲州街道の変遷」に関する話で、
https://minkara.carview.co.jp/userid/607203/blog/16912789/ にて、
甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道であった。
これは将軍家に非常事態が起こった場合には、江戸を脱出するための要路と位置づけられていたといわれる。
こうした「脱出路」としての役割は、明治期になっても踏襲される。
「西欧列強諸国が攻めてきて、強大な軍事力によって東京を陥落される」という「最悪のシナリオ」をも、明治期の首脳部は常に考えていたということである。それを裏付ける史料はテレビでいくらでも報道されている。もちろん、「東京が陥落した際、皇室が脱出する道」というシナリオは、本気で考えていたわけではないだろう。
と書いたが、
ええ。たぶん、本気で考えていたわけではないでしょう。
「帝都東京制圧されたら日本はジ・エンド」
それが本音でしょう。
そのため甲州街道も吉野宿も、
明治3年の、明治天皇の行幸の後は、だんだんと衰退していったとのことです。
特に、明治以降は鉄道が建設され、
しかもそのときに設けられた最寄の駅は「藤野」。
吉野宿からはすこし距離がある。コレが決定的だった、と。
「駅」の所在地は重要らしく、中央自動車道に乗れば東京圏の市街地などすぐの、このような場所でさえ、「過疎化・高齢化」が進んでいるとのこと。なるほど、それは「若者のクルマ離れ」というのも手伝っているのかもしれません。
でも、今はクルマ・トラックがひっきりなしに通りますので、コンビニもあり、街道として「復活」してはいますね。
でも・・・そのせいで、
目の前の国道20号を、トラックが通るたびに木造の建物がガタガタ・・・。
うーーーむ、景色はいいのですが、沿道の住環境は良くないんですな 汗。
それと、
この郷土資料館となっている「ふじや」は、
残念ながら、江戸から10番目の宿場・旧吉野宿「本陣」の遺構ではありません。
明治29年に火事(「吉野大火」)になり、吉野宿はほとんど焼失しました。
そのため、「ふじや」は、確かにかつての旅館の屋号ではありますが、旅館として今尚現役ではないですし、旅館建築でもありません。
現在の建物は、火事の翌年明治30年に建てられたのですが、
それは、「養蚕農家」という形での再スタートをきることになったのです。
勿論、「養蚕」、生糸の生産・輸出が、明治時代の日本の基幹産業だったから。
(そのため、1階に立派な座敷があり、2階が蚕の部屋であったようです)
なるほど。
ここは「経済の変化」を凄く受けやすい場所なんですな。
(↑経済の変化を受けにくい場所ってドコやねんーーーー!という突っ込みの余地がないことはない)
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相模 | 日記
Posted at
2010/05/15 23:50:34