鳥取城跡(久松山)
「国内12番目」の石高を誇る鳥取藩32万
2022年10月11日
世界ジオパークに認定される山陰海岸ジオパークのジオスポット鳥取城跡(久松山)。大地が育んだ急峻な地形を持つ山は、戦国時代の山城を起源にした城跡です。防御性の高さや、山頂からの優れた眺めから、「日本(ひのもと)にかくれなき名山」と評され、織田信長は「堅固な名城」と讃えました。
鳥取城は、歴史的に著名な羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の兵糧攻めの舞台になり、江戸時代には姫路城を築いた池田輝政(いけだてるまさ)の孫・光政(みつまさ)が、「国内12番目」の石高を誇る鳥取藩32万石の平山城として拡張整備しました。整備には、現存する姫路城大天守の築城に携わった職人たちが起用されたことから、「姫路城の弟城」とも呼ばれています。武家諸法度による幕府への配慮から、城内に高層な建造物がつくられることはありませんでしたが、藩主御殿がある二ノ丸には山陰地方初となる「層塔型」の三階櫓が建てられ、山頂の天守焼失後は代用天守として長く藩の象徴となり、城下の人々の誇りでもありました。
光政の後、長く鳥取藩を治めた鳥取池田家は、藩祖光仲(みつなか)が徳川家康のひ孫であったことから幕府に厚遇された一方で、明治維新の立役者でもありました。特に12代慶徳(よしのり)は、薩摩や長州が技術供用を求めるほどの高性能な反射炉を現在の北栄町に建造したほか、戊辰戦争では薩摩、長州に次いで新政府軍として出兵し、官軍勝利を導きました。明治維新後の廃城令では、鳥取城は軍事的な必要性が認められ、多くの建物が存続しました。しかし、国内の治安が安定すると陸軍の撤退が決定し、これにともなって城内の象徴的な櫓群はすべて解体撤去されてしまいました。
また、附指定となっている「太閤ヶ平(たいこうがなる)」は、鳥取城本丸から東に1.5kmの「本陣山」の山頂に位置しています。これは、織田信長の家臣であった羽柴秀吉が鳥取城の兵糧攻めに際して構築した陣城群の本陣です。一辺約50mもの規模を持つ内郭を巨大な土塁と空堀が囲み、鳥取城側には総延長700mもの二重竪堀や竪土塁等を築くなど、徹底した大防衛ラインは圧巻です。当時、鳥取城は毛利方最前線の城でした。織田信長は、毛利本隊が鳥取城の救援に進軍した場合、自らが鳥取に出陣することを明智光秀など家臣に明言しており、太閤ヶ平は信長出陣を前提に築かれたと考えられています。
このように国指定史跡「史跡鳥取城跡太閤ヶ平」は、その歴史の長さから、中世から近世、近代に至る多様な城の姿を今に伝えています。それゆえ鳥取城跡とその周辺は、日本城郭の歴史を物語る「城郭の博物館」と呼ばれ、日本百名城にも選定されています。
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