
6月8日(月)、広島では通勤時間帯は曇り、その後は終日の雨となりました。
週明けの月曜日は何かと忙しい。
部長は土曜日にも出勤したようで製品が出来上がっていました。
私は朝を作業を終え、自分の業務を取りかかっていたのですが、中断。
別件の仕事が優先となりました。
調子が狂ってしまいます。
さて、昨日の続きです。
広電の電車まつりの様子を見た後は袋町(ふくろまち)へ。
ウェンディひと・まちプラザ(広島市まちづくり市民交流プラザ)の北棟6Fのマルチメディアプラザです。
ネットの中国新聞では3日に情報が出ていたのですが、
地元テレビでは5日夕方、新聞では6日(土)でした。

映像作家の田辺雅章さんが爆心地中心部をCGで再現されたのです。
その上映があり、私は7日(日)、13時に間に合わせました。
既に観客はたくさんで席は一杯でしたが、何とか座れました。
上映時間はちょうど1時間。
私の知らない事ばかりで愕然としました。
・現在の平和公園一帯ですが、以前は普通の町だったことは知っていました。
しかし、原爆により全てが消失、
ちゃぶ台を囲むように頭蓋骨が数人分あり、触ると粉になったそうです。
平和公園の整備にあたり、遺骨などは全て収集され、きちんと埋葬されていると信じて疑いませんでした。
しかし、実際には嵩上げされただけなのです。
私は何も知らずに平和公園を土足で歩いていたのです。
この事はどれだけの人が知っているのでしょう?
・田辺さんの自宅は現在の原爆ドームの隣にあったそうで、8歳の時には、その産業奨励館内で遊んでいたそうです。妹さんは受話器を持ったまま、亡くなられたとか。
・産業奨励館の正面は川に向くように設計されたとか、
岸辺には雁木があり、小舟が着けられて、直ぐに荷物を揚げられるようにと。
・相生橋(あいおい;電車通り)の北側は軍の施設があったようです。
病院、普通の小学校など。
病院には各地からの負傷兵、お見舞いの方々、小学校には低学年。
高学年は学童疎開で広島県の北部へ。
旧日本軍の施設は木造であった為、原爆で全てが消失、
記録も消失したのでどのぐらいの人がいたかも判らないらしいのです。
もちろん、被爆者名簿にも記載されていません。
・元安川の西側は、俗に言う、遊郭があったらしい。
戦中でも賑やかだったらしいのですが、今では何も記録がありません。
職業差別もあり、記録しなかったらしい。
CGだけではなく、被爆者の証言もありました。
胸が詰まる思いでした。
観客はやはり年配の方が多かったのですが、私より若い方もちらほら。
これは是非ともテレビで放送して欲しい。
少なくても地元広島だけでも。

鯉城通り(りじょう)から見たプラザの北棟です。

石碑がありました。
南隣は「袋町小学校平和資料館」です。

以前は袋町国民学校でした。
被爆当時、この建物の一部が残り、救護所として使われたようです。
また、漆喰の壁には伝言文字が一部、そのまま残っています。
写真撮影は禁止でしたので写真はありません。
この建物の裏は袋町小学校です。
この小学生の平和学習の様子が資料館に展示されていました。
A3サイズの新聞があり、子供たちが勉強したことが書かれています。
これらを読むことから少しでも広島・原爆を知ることが出来るのではないでしょうか。
全国からの折り鶴もたくさんありました。
この施設もメインの広島観光コースではなく、
訪れる方は地元でも少ないと思われます。
平和公園だけが広島ではありません。
みん友さんが広島に来られたら、是非紹介したい場所です。

パンフレットを貰って帰りました。
資料館についてのHPです。
http://www.fukuromachi-e.edu.city.hiroshima.jp/shiryoukan-index.htm
昨日は私にとって有意義な一日だったことは確かです。
追加
福山城内の資料館のも戦時中の資料がネットで一部公開されていました。
こちらへも足を運びたい。