前回の
「満州事変」 にも少し書いた極東アジアの続き。
自分は船員時代に鉄のカーテンの向側、即ち東西冷戦下の東側共産主義圏の数ヶ国に何度か寄港した事がある。
近くて遠い国であるソビエト社会主義共和国連邦の東部に位置し旧満洲に接する沿海州ナホトカの記憶を辿り、私達日本人が暮らしながらも普段は忘れ勝ちな極東地域の歴史と領土問題、エネルギー安全保障を考える。
冷戦時代、ソ連極東最大の港湾都市 ウラジオストク にはソビエト海軍太平洋艦隊の基地があり機密保持の為に外国人とソ連国民でも許可者以外の立入を厳しく制限禁止する閉鎖軍港都市で外国船の入港を拒む不開港だったが現在は極東ロシア最大の国際自由貿易港である。
地名「Владивосто́к」 ヴラジ ヴォストーク は「東方を支配する」という意味がある。
1860年 北京条約で清国から沿海州(外満州)を割譲した帝政ロシアは東方の不凍港に造船鉄鋼所や海軍の関連施設と商業施設を建設し移住を進め、その名通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる。
冷戦時代に閉鎖軍港のウラジオストクに代わりソビエト連邦極東最大の貿易商業拠点となったのがウラジオストクの東隣、ピョートル大帝湾の東端に位置するナホトカ港だった。
因みに「Находка」ナホートカはロシア語で「幸運な発見・発掘・掘出し物」を意味する。
大韓航空機撃墜事件
1983年9月、アラスカのアンカレッジ空港を出発した大韓航空 KE-007便 Boeing 747型旅客機が予定コースを逸脱してソビエト連邦領空を侵犯、「民間機に偽装したスパイ機」と認識したソ連極東防空軍のSu-15TM 戦闘機が迎撃、樺太(サハリン)南西沖の日本海上空で同機が発射した空対空ミサイルにより撃墜され乗員乗客269名全員が死亡した。
自分が初めてナホトカ港に入港したのは事件の翌年 まだ夜明けも遅い初春のことだった。
当時、撃墜現場付近の海域ではブラックボックスを既に回収したソ連海軍は捜索活動を装い続け隠蔽され事実を知らぬ日米両軍の艦艇が半年以上も必死で捜索を続けていた。
本船は空船で東京晴海を出港、浦賀水道を出て  速力15
. 5kt 
 スティーミング 約58時間、野島崎を経て三陸沖を北上、津軽海峡を通過後、針路285度に変針、日本海は天気晴朗波穏やかなり。 
ナホトカ港 ETAは予定通り。
入港前の未明、当直中の事である、まだソ連の領海外にいる本船のレーダー60マイルレンジに真方位030度位から高速で接近する機影あり、船長がブリッジに上がって来て自分は目視確認の為に右舷側のサイドブリッジに出て煙草の先に火をつけ暗闇を視る。
暫くすると、まだ仄暗い北の低い空から高いターボプロップエンジンの音が聞こえて来て間も無く大型哨戒機らしき航空灯が超低空で接近、爆音で本船を威嚇するように船首マスト直上を横切る。
Tu-142M3ベア か。 
暗くて機種は確認できない。
引かれて自分も左舷側に移り、目で追っていると哨戒機は取って返し今度は船尾を横切り、爆音と航空灯は北の暗い空に飛び去っていった。
国際船舶無線電話で何度、呼び掛けても ナホトカ Port Radio は応答せず、局長が焦る。
本船の外板は洋上荷役での接舷傷が目立たない軍艦色だが登録変更して度々北洋に上がる為にポンツーンハッチカバーと外板には国際呼出符号 コールサインが大きく記されている。
緊張するブリッジでは皆が「どんなド近眼の奴にでも見えるはずだろ」「航海灯は切れてないな?」と、言うように言葉で対空防御を始めた。
自分が「奴らは民間ジャンボ旅客機でも領空侵犯機は躊躇なく撃墜するソビエト極東防空軍
ソ連太平洋艦隊なら貨物船の一隻や二隻を沈めるくらいは朝飯前の軽いお散歩でしょう。」
と言うと船長は「ダー ダー」と頷き、VHFの受話器を握り締めていた局長は増々焦った。
「エージェントが入港通報を忘れて領海侵犯で撃沈。」
と自分の軽い冗談にブリッジは沈黙・・・・・
時期が時期だけに仕方ないが、笑える時に笑っておこう。
足掻いても死ぬ時は死ぬものだ。 
本船の船位は捜索グリッド外にあって哨戒機はルーティンのパトロールとも思えるが撃墜事件以来、極東ソ連軍はピリピリしている。
入港の約30分前、やっとVHFにナホトカの航路管制から応答があり、局長が話す。
しかし緊張し焦っているからなのか・・・局長の英語が全く向こうに通じない。
ロシア訛の英語は聞き取り難い、局長に頼まれ自分が代わって航路管制と通話した。 
海図にあるナホトカ湾入口航路浮標の №1ブイに向かい、管制に指示された針路を進む。
だが肉眼で確認できるはずの距離になってもブイは一向に見えて来ず、今度は自分も焦る。 
船長、いやキャピタンはチャートを見て「ニェット ニェット」と首を横に振るが笑えない。 
レーダーで湾の地形を確認しながら針路速力はそのままブイらしき反応に向かい直進する。
湾入口付近まで来てブイを視認できたが、点灯しているはずの灯浮標は真っ暗だった。
全く発光していなければ、どんなに目を凝らしても見えるはずがないOrz。
これが超大国ソビエト連邦極東最大の国際商業貿易港の入口なのか。
日本では経験がない事に首を傾げながら減速してナホトカ湾内の指定された描地に向かう。
指定描地に投錨後、主機を停止をする間もなく小型警備艇一隻がやって来て本船に探照灯を照射しながら一周したが臨検せずに帰って行った。
暗闇と爆音に緊張した長く騒がしい夜であった。
ブリッジの操舵・レーダー機器を落とし、航海日誌を書き終わると東の空が白み始めた。
極東共産圏の赤い夜明けである。
日出と共に甲板手が本船レーダーマストの最も高い所に赤いソビエト社会主義共和国連邦の国旗と検疫要請の黄色いQ 旗を揚げ、船尾マストに日章旗を掲揚した。
船内の日本時間と極東ソ連の時差が2時間ある為、早目に朝食を済ませてギャングウェイを降ろし書類を揃えて検疫と入港手続を待つ。
荷役デリックとハッチの準備も済ませて待つが、官庁職員もエージェントもやって来ない。
昼前になり、やっと入税関と代理店が乗船して来てサロンで入港尋問と検査手続を始める。
入港手続の最後にコーヒーを飲みながら航路ブイが不灯だった事を官庁職員達に告げたが、
彼らは笑らいながら「問題無い、何時か治る」と、答えて終った。
「何時か治る」・・・・・意味が解からん。
航路管制官も寝ていたのか?と疑いたくなる。
「Да, нет」  彼ら、ソヴィエツキィの回答は何時もテキトーであった。
彼らは持参して来た空のスーツケース一杯に暗黙に要求した高級酒やタバコなどの戦利品を詰め込んで満面の笑顔で下船していった。
社会主義超大国と称する USSRの公務員も東南アジアの後進国と同じスタイルである。
暫く待ち古いタグボートで大柄のパイロットが乗船、本船はアンカーを揚げて岸壁に向う。
ナホトカ港の港内には小型のフリゲート艦と警備艇が数隻が並んで停泊している。
ウラジオの様に潜水艦や大型ミサイル巡洋艦は見当らないがナホトカにも海軍基地がある。
ウラジオストクの太平洋艦隊艦艇 
ソビエト海軍の水上艦艇は対艦巡航ミサイルや対潜ロケットの多連装発射筒と対空兵装の重装備に乗組員が多いブリッジやハウス周辺の大きさが特徴を持ち、トップヘビーな艦影は洋上で会しても一目で判る。 
本船は古い大きな倉庫の前に接岸したが、ニコニコ愛想の良いパイロットは「祝いの乾杯」を求めて酒が出るのを待って帰ろうとしなかった。
хорошо。 本船の司厨長は用意が良い。
パイロットは嬉しそうに出された洋酒をキャピタンと自分にも勧めて「カンパイ!」と煽るように一気に飲み干し、司厨長に熱い抱擁をして機嫌良くブリッジを降りていった。 
ナホトカ湾内には日本の経済援助でコンテナバースや木材埠頭が新たに建設されているようだが、本船の積荷「икра」イクラは市街地に近い旧港の冷蔵倉庫の中にあった。
この旧港の港湾設備やシベリア鉄道支線であるウラジオストク~ナホトカ間の鉄道施設建設に多くの日本人抑留者が使役されナホトカには生きて帰れなかった日本人の墓地もある。
春の沿海州は、まだ寒い。
本船の舷門下には東側軍の特徴的な大きな制帽を被り裾の長い外套を着た国境警備隊の兵士が自動小銃を背負い24時間立って本船のクルーと荷役作業員の出入りを監視している。
自分はタラップを降りて幼さを残す固い表情の若い兵に話し掛けたが彼は英語を話せない。
陽が暮れ寒くなり、「タバリシチ、ホーロドナ」と彼に暖かいコーヒーやタバコを勧めた。
彼の固かった表情は笑顔に変わったが、彼はイャポーニェツから何も受取らなかった。
自分は「同志は真面目だな君らの上官は皆美味しい事をしているぞ」とは言えなかった。
そんなことは言えない空気もあるが、自分のロシア語力では「同志の頭は、とても美味しいです。」としか言えなかったからであるOrz。
Интернационал  СССР урааа! 
VIDEO 
党指導のスローガンを掲げた古い倉庫、クレーン、鉄道貨車、トラックなど総てが旧時代。
今や映画の中でしか見られない戦前と幾分変わらぬ港湾施設や東欧的な古い街並はノスタルジーを感じさせると同時に自分が目にした現実は、この国が世界一の戦略核弾道ミサイルと原潜保有国であることを俄には信じ難く、核の管理体制にも不安を覚えた。
本船に乗込んで来た夜荷役の作業員達が寒い寒いと言っては酒を要求してくる。
アルコールを大きな薬缶に入れて、ステベのリーダーに渡すがスグに無くなる。
本船のホールドは外より遥に寒い、熊の様な体格のギャング達はウオッカを水の様に飲む。
因みにタリー検数員は頭にスカーフをして太った白熊みたいな可愛いオバちゃんだった。
2日目の夕刻、荷役当直が終わり、自分は一人で街の散歩に出た。
ナホトカの街はノンビリして他のアジアの港街とは違う何とも言えぬ風情には郷愁がある。
漢字の看板やアジア人は見掛けず住民の殆どが白系スラヴ人で東洋であることを忘れる。
束の間のタイムスリップから帰船して間もなく、自分の船室ドアを誰かがノックした。
ドアを開けると先程デッキで少し会話をした大柄な作業員のリーダーが立っている。
彼は被っていたソビエト軍兵士が真冬に使うような大きな毛皮の帽子を自分に差出して片言の英語で何か物品と交換して欲しいと言った。
この国の一般市民はルーブルなら兎も角、円やドルなどの外貨は持っていない。
高価なミサイル原潜や対潜哨戒機、また多少の金が有っても街には物が無かった。
自分は買い置きしている私物のインスタントコーヒーや紅茶、タバコにライター、石鹸やシャンプー、チョコレート、お菓子など彼が欲しがりそうな物をベッドの下の棚から出した。
彼は大喜びし「アリガトウ」を何度も言い、渡した袋に入れずポケットや服の下に隠した。
日本では高そうな毛皮の相場など知らない自分は差し出してきた帽子を受け取らなかった。
彼はニッコリ笑い、大きな帽子にも物を入れ頭に載せて右手を伸ばし握手を求めてきた。
「礼はいいから、北方領土を返せ。」とは言わず自分は笑顔の彼と握手をした。
ただ内緒の意味で自分の口に人指し指を当て船室を出て夜荷役中のデッキに向かう。
固く断られても毛皮の帽子を何度も差し出す彼にはロシア人としてのプライドがあった。
だが、これを絶対に他の後進国でやってはいけない、クレクレタコラの行列ができる。
翌朝、自分と2/E、局長の3人で上陸、埃を捲き上げながら街を走る丸々太ったオバちゃんが運転する床に穴が開いて道が見えるオンボロ公営バスに乗り、Seamens Club に行った。
この国の女性が皆、毎日じゃがいもとカーシャを食べて太ったオバちゃんばかりではない。
少しダサいが若い娘は目一杯にお洒落をして歩く、この国のオネーちゃん達はキュートだ。
運転手、港湾労働者、時間が止まった街の人達は皆、素朴で親切、バスは無料である。
海員クラブの暗いロビーでマトリョーシカの横にイズベスチアやプラヴダと一緒に並べ置かれていた確か「ロシアの大地で幸せに暮らす日本人妻」というような表紙のソビエト共産党が発行した日本人向けの広報誌を読んで、そのプロパガンダの大嘘とアホらしさに吐き気がした。
紅茶を飲みながら接待してくたクラブの若い女性はロシア語と英語しか話さなかった。
すると暫く英語で会話した後に彼女は恐ろしいほど達者で流暢な日本語で話し始める。
自分の制服の胸にある漢字で書れた名札の職席と日本人でさえ難しい自分の氏名をスラスラ簡単に読んだ彼女はロシア訛も全く、日本の新聞雑誌も総て読めると言う。 
なら初めから日本語で話せ。
自由主義西側陣営である日本の新聞雑誌を自由に読める立場にいると言う彼女はKGBだ。 
この国では日本語でも 迂闊な事は話せないと言う事である。
国を守る空軍が269人を乗せた民間旅客機を撃墜した事など、この街の人達は知らない。
国家の監視対象は自分のように外国からやって来た西側自由主義圏の船員だけではない。
国家に忠誠を誓い機密に触れる軍人や官庁職員以外の工場や港湾労働者など一般国民も情報が統制され言論や行動が監視される。
ゴルバチョフが廃止するまで シベリアには政治犯が送られ強制労働させる強制収容所があったが、1984年の日本から来た自分にはソビエト連邦全体が閉鎖都市その物で国民全てが巨大な収容所、ラーゲリにいる様に思えた。
海員クラブを出てテクって帰船する途中、入港時に湾内で見た海軍艦艇の乗組員らしい若い水兵達に街で出会ったが、デカイ帽子とセーラー服が可愛いウィーン少年合唱団に見えた。
この国では海軍の艦隊勤務はエリートなのであろう、皆育ちが良い賢そうな顔をしている。
だがAKを背に暗い顔で無口に行進する警備隊列と擦れ違った時、先軍共産社会主義国家の先は短いと感じた。
主義と党を信じる赤いネッカチーフのピオネールの可愛い少年少女達の将来が気になった。
軍事施設周辺以外の観光は制限付き自由だったが、無暗やたらに写真を撮りまくるとスパイ容疑で拘束され取調べられフィルムは没収される。
入港4日目の夕刻、本船は腹一杯にイクラの箱詰を満載し日本に向けナホトカを出港した。
出帆祝いの乾杯をしたパイロットはウオッカを煽ってタラップを降りた До свидания。
ダスヴィダーニヤ СССР   さよなら ロシア また来る日まで。
VIDEO 
当時、自分達と反対にソ連船員の外地、特に西側諸国での上陸行動はソ連政府から厳しく制限されソビエト海軍艦艇と同じく、FESCO(ソ連極東海運)の商船にも船長と同等以上の権限を持たされた共産党の政治士官「Political Officer」が配乗され乗組員達の行動を監督監視していた。  
これは中共の国営公司の商船も同じであった。
ソ連船乗組員が外国の港に上陸する際は必ず数人で集団行動させて亡命や裏切逆スパイ活動を阻止する為に乗組員同士が互いに監視し帰船後に政治士官、政治局員に行動を報告する。
また電子技術の知識も金も無い下級船員がメモを片手に日本製の電子部品を買い漁っていたのはCOCOM規制の下、日本から持出を指示された政治局員からの下令によるものだ。
自分はエージェント時代に万引で取調を受けたソ連船員を神戸で下船させ、在大阪ソビエト領事館に立寄り富山新港に入港中のソ連船に転船させ本国に送還した事がある。
年配の彼は入管を出てソ連領事館に着くまで怯え、領事館員は自分を笑顔で迎え入れた。
だが彼は別室へ連れて行かれ、その後は車や列車の中でも終始口を開かず、自分が勧めても何も飲まず何も食べず、富山で船長に引渡した時も黙り込み蒼ざめていた。
例え万引であろうが日本の官憲に取調を受け、連邦の顔に泥を塗り無駄な外貨を使わせた。
祖国ソビエト連邦に帰れば、重罰が待っているのであろう。
自分は東側共産主義圏の国に寄港する度に小中学校でソビエトを理想の国家、ユートピアと称賛し共産社会主義は素晴らしいと子供に説いた担任の先生達の顔を思い出した。
今の若い人達は共産主義シンパ、日教組の悪行を知らない。
学校の図書室にはマルクスやレーニンを始めロシア革命、戦艦ポチョムキンの叛乱、独ソ戦の勝利を讃えるレニングラードやスターリングラード攻防戦、ホロコースト、南京大虐殺や八路軍と毛沢東、白骨街道インパール、広島と長崎、沖縄戦、抗日パルチザンと朝鮮戦争、キューバ革命、ベトナムの父ホーチミン、ガガーリンとテレシコワ、文学はトルストイと蟹工船が目立つ場所に並べられていた。
今思えば一体、何処の国の学校なんだ。
全部読んだが平壌や北京、モスクワ放送を聴いていたバカなイワンには免疫があった。
また芸術作品と称しては学校の講堂で何度もソビエトの国策映画を何度も見せられた。
それも淀号、浅間山荘、テルアビブ空港乱射、ドバイ、ダッカとバカが暴れている際中に。
朝鮮戦争は米国の後押しで韓国軍が朝鮮人民共和国を攻撃して始まったと嘘を吐いた。
左翼は休戦協定後も北朝鮮は衣食住の心配がない「地上の楽園」と大嘘を吐き続ける。
米国のベトナム介入を人殺しと批難したがプラハの春やソ連のアフガン侵攻は知らぬ顔。
柳条湖とトンキン湾の二度目の攻撃は軍事介入の謀略だが共産勢力の南浸テロが原因。
反戦人権を言う、ベ平連はKGBからの司令と工作資金で活動していた共産主義工作員だ。
社会科の授業「ソ連の人は真面目に並びデパートの包装にも新聞を使い節約している。」
共産圏では物が無く人は並び、包装紙も無い故に何の役にも立たない新聞を使うのだ。
毒性が強いスローガンやプロパガンダで埋まる共産党機関紙など危なくてケツも拭けない。
「軍国主義の日本が土足で平和な中国に押し入って首都南京で中国の人を虐殺した。」
開戦を嗾けたのはコミンテルンと南京政府や軍閥に潜り込んだ左翼共産主義者どもだ。
1927年の南京事件、漢口事件、盧溝橋事件、大山中尉事件、廊坊事件、広安門事件、
これら全て支那軍閥内の共産党派が日本軍に仕掛けた戦闘だった。
「八路軍やソ連赤軍、パルチザンは人民の味方で敵だった日本人にも優しかった。」
何を眠たい戯言をほざいているのか? 寝言は寝て言え。
偏った認識と歪んだ己の思想を日本の公立小中学校で子供たちに吹き込むな。  
ソ連兵や共産匪賊に連れ去られ犯され殺された日本人婦女子の遺族や墓前で言ってみろ。
尼港事件 、
葛根廟事件 、
敦化事件 、
小山克事件 、
通化事件 、
牡丹江事件 は教えない。
赤く気触れるにも程がある、無責任な思想洗脳や刷り込みは放課後に独りでやれ。
国旗国歌を疎かにし祖国の文化伝統に誇りを持たずして憲法9条に誇りを持てと言うな。
左巻教師が憧れた名ばかりの共和国は「地上の楽園」などではなく、中ソ紛争、柬越戦争、アフガン侵攻、中越戦争、ユーゴ紛争、ミャンマー内紛、チベット、ウイグル、平和と平等共存を謳いながら、共産社会主義国は少数民族の弾圧と周辺国とも戦争を繰返している。
20世紀、共産主義は人類に拠る大規模な生体実験、大量虐殺と血の粛清を繰返した。
21世紀、共産主義は独裁者と偽善者、貧困ビジネス利益集団の隠れ蓑になった。
信じる者は救われる。と言うウイルスや伝染病を撒く共産社会主義は20世紀の新興宗教。
一部の党幹部党員が大部分の人民を搾取する上下階級社会が一党独裁共産主義国の実態。
人間の個人個性を見ず、細胞や階層、集団と見て人を家畜化する共産主義に未来はない。
共産主義を信奉する日教組な先生方は子供達の教育を受ける権利よりも労働者として権利を主張し公務員と教育者、大人の義務を放棄し、己の給与や待遇改善の為に労働争議を起こしストライキを強行して自分達子供に小中学校を休ませた。
それを指摘した自分を担任の先生は真っ赤になって怒り教室から出して廊下に立たせた。
小生意気な反動反革命分子を修正した心算か。 
ブルジョワな独身BBA教師のヒステリーな言論統制、ただの口封じだ。
小中学生すら口で説得できぬ無能教師が強権共産社会主義国家を理想郷などと言うな。
共産主義は思想ではなく、人を無視した科学、カルト宗教、伝染病である。
極東ソ連で水揚げされたサケ、イクラ、ニシン、カニなどの豊富な水産物も殆どが外貨獲得の為に輸出され一般家庭の食卓には並ばず滅多にソビエト国民の口に入ることはなかった。
イクラ丼も食い飽きた数航海後、再びナホトカに寄港したが航路浮標は壊れたままだった。
哨戒機を飛ばし警備艇で出迎える金が有るならバスの床と航路ブイの故障くらい修理しろ。
過大な軍事力と最低限の衣食住と公共事業、何ともバランス感覚に欠ける国だと思った。
2度目のナホトカ入港時は撃墜事件は終息して警戒体制は解かれ軍事費の余裕も無くなったのか、派手な出迎えは無かった。
この頃は既にソビエト連邦には共産党政府の言葉を信じる人民は殆どいなかった。
8年後、ペレストロイカはベルリンの壁を壊し東西冷戦は第三次世界大戦に発火する事なく
1991年 
СССР  ソビエト連邦は崩壊、地上から消滅した。
しかし、これは社会主義経済体制が自爆したのであり、東側が西側に軍事的に降伏したのでなく、ワルシャワ条約機構軍は解散したが当然、NATO軍に拠る武装解除ではない。
また一部を除き、ソ連邦から離脱した国々に於いても、旧ソビエト軍の主力装備はロシア連邦軍が、引継いだが、ソ連からロシアに変わっても依然、国の経済状態は苦しく、肥大した軍は予算も取れず兵器の整備はおろか兵士の給料にさえ事を欠く。
1976年、ソビエト連邦極東防空軍の若き将校ヴィクトル・ベレンコ中尉(29歳)が、祖国を捨て当時ソ連空軍最新鋭迎撃戦闘機 MiG-25Pでウラジオストク北東チュグエフカ基地を離陸し函館で亡命を求めた時、既にソビエト連邦の腐敗は進んでいた。
1992年にはウラジオ近郊のルースキー島にある海軍兵営が孤立して上官が数ヶ月もの間食糧を補給することを怠っていた為、兵士4名が餓死し、数百名が入院する事件も起きた。
精鋭偵察部隊、スペツナズも上官の怠慢と餓えには勝てない。
ソ連邦最後の書記長、初代大統領 ミハエル・ゴルバチョフは冷戦を集結させ西側では人気があるがロシア国内では評判が悪い。
あの時、故障したナホトカの航路ブイを「何時か治る」と言った意味が解かる。 
当初、灯火管制とも考えたが、社会主義で国際経済競争力と政治的影響力を先軍政治体制の失策で財政資金を失ったソビエト連邦は極度の金欠状態に陥っていた。
だがソ連の軍人や官庁職員達が国には金が無い給料も未払いだと外国人には言えない。
当時、日本が経済支援して北方領土を取り戻す機会は絶対に今しか無いと自分は思った。
東西両陣営が必然的に軍縮に向かうのは喜ばしい事であったが核兵器や艦用原子炉の解体には更に多額の予算が必要であり、米国をはじめ西側諸国がこれを支援する事になった。
ロシア海軍に引継がれた Soviet Navy Akula class nuclear attack sub アクラ級 攻撃型原潜  
冷戦時代からソ連邦は日本海や北海などに老朽化した原子炉と放射性核廃棄物を大量に投棄して現在、把握しているだけでも過去に10隻以上の原潜を世界中の海に沈め、核弾頭装備のSLBMと核魚雷も50発以上が回収不能であり少なくとも日本海に2基、オホーツク海に1基の艦用原子炉が投棄されている。
冷戦が終結した今日現在も日本海やオホーツク海ではロシア海軍のミサイル原潜が攻撃目標に照準を定め艦隊司令部からの発射命令に備え行動している。
1985年8月 ウラジオ港外での原子炉爆発事故を起こした エコーII級 巡航ミサイル原潜 K-4311986年10月 ミサイルベイの爆発火災事故で沈没した ナヴァガ級 弾道ミサイル原潜 K-219   新しい極東の安全保障経済戦略 環太平洋同盟 対 中華圏同盟 新しい日露関係 北方領土 Empire of the Sun 8   「太陽の帝国」その8   大日本帝國 Empire of the Sun 10   「太陽の帝国」その10  満州事変 Empire of the Sun 11   「太陽の帝国」その11  上海事変 38th parallel Military Demarcation Line  38度線 休戦協定破棄 「朝鮮戦争 1950 KOREA」