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2025年12月02日 イイね!

『DF40』

『DF40』(上) 車輌アルバム5 国鉄DF40・90
第2版 レイルロード(1999/01発売)紀伊國屋書店
(下)FC2 Blog 鉄道模型製作販売記 夢屋=リファイン製作
2017-08-18

DF40形は、かつて日本国有鉄道(国鉄)で試用された電気式ディーゼル機関車である。
1.製造の背景
 国鉄がディーゼル機関車の開発を模索していたころ、国内の車両メーカーは国鉄および海外への売り込みをはかるべく、独自の機関車を設計・試作した。これらの機関車は、合計9形式が国鉄に借り入れられ、40番台、のちに90番台の形式を与えられて試用された。一部の形式は国鉄が正式に購入した。 それらの試作機関車のうち、本線用として製造されたのが、本形式である。
 1955年に神戸の川崎車輌兵庫工場で1両が製造された。
 本形式はのちにDF91形(2代)と改称されるが、それ以前にも同じDF91形を名乗る機関車が存在した。
2.車体
 車体は箱形で全体的に丸みを帯びており、円形の側窓が特徴的である。屋根上の明かり取り窓も円形である。落成当初は、前面は非貫通式2枚窓構成[1]であったが、1964年にDF50形との重連総括制御が可能なように改造されてジャンパ栓が追加設置され、さらに翌年貫通式に改造されてDF50形に準じた前面形状とされている。
 登場当時の車体色は水色に裾部が橙(黄色に近い)の帯、のち同じ塗り分けで茶色と白の帯(スカートは黄色と黒のいわゆるゼブラ模様)、そして朱色とグレーのツートンカラー(正面は金太郎塗り分け。貫通式となった直後もほぼ同様)を経てDF50形と同様の塗装とされた。
3.主要機器
 エンジンは川崎車輛がドイツのMAN社との技術提携によりライセンス供与を受けて製作したV6V22/30形(V形12気筒、バンク角45°、シリンダ内径220mm、行程300mm、連続定格出力1,200馬力/900rpm)である。このエンジンはMAN社が第二次世界大戦後船舶用として量産していたVV22ディーゼルエンジンシリーズの1機種で、機種・使用条件によるが1,200馬力~1,900馬力程度の出力が可能な設計であった。
 同系の川崎/MAN V6V22/30ATLは1960年代に計画・建造された海洋観測艦あかしをはじめとする何隻かの川崎造船所/川崎重工業製海上自衛隊向け補助艦艇に、16気筒構成に拡張した川崎/MAN V8V22/30mALは青函連絡船の津軽丸 (2代)をはじめとする津軽丸型の初期3隻などにそれぞれ搭載され、また日立製作所とMAN社の提携によって製作されたV6V22/30ATLはコンゴ国鉄向けDELに搭載して輸出されるなど、この系列の機関は1950年代後半から1960年代にかけて船舶・鉄道向けとして日本で多くの製作実績を残している。また、後述するように本形式での運用実績から川崎と日立が製作したV6V22/30mAがDF50形500番台に採用され、同番台は73両が量産されている。
 動力伝達方式は電気式を採用した。主発電機としては川崎車輌自社製のK4-730A[2]を1基搭載し、全車軸にK4-1453Aと称する同じく川崎製の吊り掛け式主電動機[3]を装架する。
 制御は先行するDD50形等と同様、エンジン回転数の調速と一段弱め界磁制御によって行う方式で、竣工当初は重連総括制御非対応であった。
 台車は、鋳鋼製台車枠を備える3軸ボギー台車を2組装備し、軸配置はC-Cである。動輪直径は1,000mm。
 軸箱支持機構は通常のペデスタルを用いる軸ばね式で、第1(4)・第2(5)軸および第2(5)・第3(6)軸間にそれぞれ設けられた揺れ枕を線路方向に長い重ね板ばねで連結・支持し、この上部に側受を置いて車体の荷重を支える構造であった。[4]
 この3動軸構成の台車は通常の2動軸構成の台車を3組備えるのと比較して軽量化が可能であったが、その反面、曲線通過時に中間軸が線路側面に与える横圧が大きいという問題があった。
 本形式ではこの点が試験運用開始後に問題となり、土讃線を管轄する四国鉄道管理局(当時)がディーゼル機関車の運行を大々的に宣伝していたにもかかわらず直ちにメーカー返送・改修を余儀なくされ[5]、さらには運用線区である土讃線へのタイプレート設置などの軌道強化が必要となった[6]。
 本形式でのこうした横圧過大の問題露呈を踏まえ、川崎車輌にとってライバルであった新三菱重工業が開発したDF50形では軸配置B-B-Bとし、さらに中間台車にTリンク装置と呼ばれる特別な吊りリンク機構を採用することでC-C配置の台車で発生しやすい横圧過大の問題を回避し、制式採用を勝ち取っている。
 また、本形式試験運用時の手痛い教訓は、本形式と同様にC-C軸配置を採用したが中間軸について厳重な横圧低減対策を施したDF93形や、軸重の制約などから3動軸台車を一方に装着したがA-A-A配置として各軸の遊動を可能とすることで側圧低減を図ったDE10・DE11・DE15・DE50形など、本形式以後に日本国内で設計された3動軸台車を備えるディーゼル機関車で中間軸の横圧過大に特に留意した設計が行われる契機ともなった。
4.運用
 1955年12月に川崎車輌兵庫工場で製番14[7]として落成したが、この時点では無番号で濃い青を基調に車体裾部に黄帯を巻いた姿であった。
 翌1956年度より国鉄が借り入れ、最高力行速度が75km/hであったことから当時の試作機関車形式で最高速度85km/h以下の車両に割り当てられていた40番台の形式称号が付与され、DF40 1と命名された。
 借り入れ開始後は手すりの追加など運用上必要な手直しを実施の上で1956年4月に高松機関区へ配置され、土讃本線にて各種試験に供された。この際の試験の結果、前述のとおり一度川崎車輌へ戻されて改良工事が実施されている。1956年10月に高松機関区へ再配置され、同年11月のダイヤ改定では準急「南風」上り列車の牽引を受け持つなど土讃線の旅客列車[8]、貨物列車に使用された。
 1957年3月には新製配置されたDF50 1・2と入れ替わりに再度川崎車輌へ返送され、警笛の交換や元空気溜めの増設など修繕と改造工事をうけ、同年6月に四国へ戻され、翌1958年3月には高知機関区へ転属となった。この時期には性能を安定的に発揮可能であったとされる。
 この間、1958年4月からは本形式と同系のV6V22/30mA(連続定格出力1,200馬力)を搭載するDF50形500番台が川崎車輌と日立製作所、それに東芝の3社によって量産開始され、スルザー8LDA25Aエンジンを搭載する0番台車と並行して1963年までに73両が生産されている。
 これにより試作車としての役割を果たし終えた本形式であったが、1958年8月に国鉄が購入、1961年10月の称号改正でDF91形と改称された。
 その後は四国に多数配属されたDF50形と共通運用され、1963年7月に朱色4号を基調として窓周りをねずみ色1号として、さらに前面はいわゆる金太郎塗りとした二色塗り分けに車体塗装が変更され、1964年2月には重連総括制御化改造を施工されてDF50形との重連運用が可能となった。
 もっともこの時点では車体前面が非貫通構造であったため、重連運用時の乗務員移動の便を図る必要から1965年10月にDF50形と類似の貫通扉を妻面中央に設置した運転台構造へ改造された。さらにこの直後には塗装が通常のDF50形と共通のデザインに変更された。
 本形式は元々DF50形500番台と同系列機関搭載で保守部品の調達が比較的容易であり、しかも軸配置こそ異なるもの性能はほぼ共通でダイヤ上限定運用とする必要がほとんどなかった[9]こともあって長らく高知機関区配置として土讃線で暖房用蒸気発生装置を必要としない貨物列車運用を中心に使用され、結果として1950年代から1960年代にかけて国鉄で試用された車輌メーカー製試作ディーゼル機関車群の中では国鉄において最も長く営業運転に使用された形式となった[10]。
 なお、前面貫通化改造後、時期は不詳であるが当時の四国に配置されていた気動車・ディーゼル機関車で広範に施工されていた踏切事故対策としての前面強化改造工事を施工されている。
 1975年2月28日に廃車となり、その後多度津工場で解体処分されている[11]。
5.主要諸元
全長:15.4m
全幅:2.7m
全高:3.75m
運転整備重量:75t
機関:川崎重工業V6V22/30形ディーゼル機関1基
軸配置:C-C
連続定格出力:1200PS/900rpm
動力伝達方式:電気式
主発電機:K4-730A
主発電機出力:730kw/900rpm
主電動機:K4-1453A
出力:108kw/500rpm
連続定格引張力:10800kg/21.4km/h
最大運転速度:75km/h
6.脚注
[1]^ 窓周りの構造はEH10形電気機関車に類似する、上部が後退し車体内側に落ち窪んだ形状となっていた。
[2]^ 端子電圧480V時連続定格出力730kW、1,520A、900rpm。
[3]^ 端子電圧480V時連続定格出力108kw、252A、500rpm。
[4]^ 当初の構造は、ヨーロッパの標準軌車両では一般的な、車体荷重を全て側受で負担する構造であり、枕梁を大幅に軽量化可能なためほぼ同時期の東急5000系電車や国鉄10系客車などでも類似の設計が広く用いられていた。
[5]^ これに伴いディーゼル機関車運行の公約を守る必要に迫られた四国鉄道管理局は、急遽敦賀第一機関区からDD50形4号機を借り入れて優等列車中心に運用している。
[6]^ 横圧過大の原因は、調査の結果車体の重量をすべて台車の側受で支持していて摺動面の抵抗が大きく、曲線通過時に台車の旋回が円滑に行えなかったためであったことが判明した。そのため、本形式は一旦川崎車輌に戻されて台車の改造工事を受けている。改造後は曲線通過時に線路側面に与える横圧は著しく低下し、当時の土讃線で主力であったD51形蒸気機関車以下の範囲に収まるように改善された。
[7]^ これは川崎車輌の内燃機関車としての通算製番である。同社では、前身である川崎造船所時代から蒸気機関車や電気機関車など車種毎に異なった製番を割り当てていた。
[8]^ ただし暖房用蒸気発生装置を搭載していないため、冬季の旅客列車運用時には暖房車の連結が必須であった。冬季の「南風」牽引時にマヌ34形暖房車を連結していたことが記録されている。
[9]^ もっとも、1両だけの少数形式であったため乗務機会が少なく、しかも台車構造の制約からブレーキシリンダーの数が1両で8基と少なく、12基のブレーキシリンダーを備えるDF50形と比較してブレーキの効きが悪いため、乗務員からは敬遠されがちであったとされる。また、同じくブレーキ性能の問題から重量列車への充当には配慮が必要とされるなど、運用面にも若干の制約があったといわれる(出典:レイルロード 車輌アルバム5「国鉄DF40・90」)。
[10]^ 試作ディーゼル機関車全体ではDD42形が鹿島鉄道で1988年まで運用されている。
[11]^ 同機のナンバーと製造銘板(川崎14号)は、解体時取り外され、多度津工場で保存された。国鉄時代の工場開放時に展示されたこともあったが、現在は詳細不明。
7.外部リンク
荒井文治, 臼井茂信, 杉田肇「デイーゼル機関車 DF91」『機関車ガイドブック』誠文堂新光社、1963年、234-235頁。doi:10.11501/2499981。 川崎車両と川崎重工の共同製作と書かれている
最終更新 2025年11月6日 (木) 12:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

≪くだめぎ?≫
 今回、"DF40"の画像を発見。
 重連総括制御と貫通扉を設置して"本務機"DF50と共通運用された"試作機"、
事実上の先行量産車だ。最初の前面は今となってはインパクトあると思うが・・。
Posted at 2025/12/02 10:22:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーゼル機関車 | 旅行/地域
2025年12月01日 イイね!

軽米町(かるまいまち)の"トラブル"?

軽米町(かるまいまち)の"トラブル"?希望ナンバー「819」を取得したジェイアールバス東北二戸営業所の車両
2018年9月23日

 出身者である古舘春一が執筆した漫画「ハイキュー!!」は舞台を宮城県と設定しているが、主人公が通う高校の体育館が古館の出身校である軽米高校の体育館との類似や、町内の景色が漫画の背景と類似が指摘されており、2024年の映画公開後は聖地巡礼に訪れるファンが増加した[6][7]。町では撮影スポットの案内、作中の登場人物の好物を再現したメニュー[6]、町内で使える商品券をプレゼントするキャンペーンなどを始めたが、著作権を管理する集英社や東宝から表立って作品タイトルを使用することは著作権侵害の可能性があると指摘を受けた[7]。使用料が高額なため町の予算では支払いが難しいという[8]。
 なお舞台となった宮城県では公式な許可を得てコラボレーションが行われており、仙台市ではキャラクターを観光大使に任命している[6]。
[6]^ “ハイキュー!!聖地巡礼熱く 岩手県軽米町にファン続々、地元歓迎”. 日本経済新聞 (2024年7月6日). 2024年9月10日閲覧。
[7]^ “人気漫画「ハイキュー!!」の「聖地」困惑 著作権侵害の恐れと指摘:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2024年9月9日). 2024年9月10日閲覧。
[8]^ “デーリー東北デジタル”. デーリー東北デジタル. 2024年9月10日閲覧
最終更新 2025年10月26日 (日) 04:41 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

『ハイキュー!!』は、古舘春一による高校バレーボールを題材にした日本の漫画作品。『少年ジャンプNEXT!』(集英社)2011 WINTER・『週刊少年ジャンプ』(集英社)2011年20・21合併号にそれぞれ読切版が掲載された後[1][2]、『週刊少年ジャンプ』にて2012年12号から[3]2020年33・34合併号まで連載された[4]。
 2024年12月時点で、コミックス全45巻の累計発行部数は7000万部を突破している[5]。
■反響・評価
 読切版が掲載された『少年ジャンプNEXT!』(集英社)2011 Winterには『ニセコイ(読切版)』(古味直志)なども掲載されており、「プレミア物」になっているという[注釈 1][27]。
 連載を開始した2012年以降、本作の影響で中学・高校におけるバレーボール部の部員が男子を中心に増加傾向にあるとされている[28]。2012年11月には、『黒子のバスケ』・『暗殺教室』などと並び、「ニューパワージェネレーションキャンペーン」の対象に選ばれた[29]。2018年時点では、『ONE PIECE』『HUNTER×HUNTER』に続き、『僕のヒーローアカデミア』と並ぶ『週刊少年ジャンプ』の人気作であるとされた[30]。
 古舘の出身地・岩手県軽米町と似た風景が作中で数多く登場しており、「聖地巡礼」に訪れるファンが多い[31]。また地元商工会の青年部も独自に調査した場所を紹介していた[注釈 2][33]。ジェイアールバス東北二戸支店は、2016年から岩手県立軽米高等学校「軽高祭」開催日は軽米線の臨時便を運行しており、高速車で運用される便は「カルマイトッキュー!819号」の愛称が付けられているほか[34]、2017年に二戸支店に配属されたいすゞ・エルガミオ(2代目)ノンステップバス1台のナンバーは希望ナンバーにより「819」の番号を取得している[35]。
 葦原大介は『ワールドトリガー』を制作するにあたり、本作の影響を受けたことを明かしている[36]。他誌出身の出水ぽすかは『約束のネバーランド』を連載中、絵柄を「ジャンプナイズ(ジャンプ化)」させるために本作を参考にしたという[37]。
 2014年10月に発売された単行本13巻と小説版4巻は、それぞれオリコンの週間ランキングのコミック部門とBOOK(総合)部門で首位を獲得し、ランキング主要2部門を制した[38]。2015年5月には単行本16巻と小説版5巻で再びオリコンのコミック部門とBOOK(総合)部門で首位を獲得、両部門同時首位獲得数における単独トップに躍り出た[39]。アニメが放送された2014年には、漫画単行本市場を伸長させた3作品の一つとして挙げられた[40]。
 本編完結後も劇場版アニメ公開の影響などで売り上げを伸ばし、2024年12月時点で電子版も含めたコミックス累計発行部数は7000万部を突破している[5]。
■脚注・注釈
[注釈 1]^ 古舘・古味のほかに、横田卓馬・高山としのり・今日和老・杉江翼・田岡宗晃・青戸成・やしろ学・森田蓮次・ムロコウイチらが読切作品を掲載していた。
[注釈 2]^ なお、権利上や著作権料などの問題から、軽米町としては表立ってのイベント開催や情報発信は行っていない[32]。
■脚注・出典
[1]^ 「ジャンプNEXT!に古味直志&古舘春一の新作掲載」『コミックナタリー』ナターシャ、2011年1月8日。2020年1月10日閲覧
[2]^ 「四ッ谷先輩の古舘春一、バレーマンガ「ハイキュー!!」掲載」『コミックナタリー』ナターシャ、2011年4月25日。2020年1月10日閲覧。
[3]^ 「古舘春一が男子バレー描く「ハイキュー!!」ジャンプで開幕」『コミックナタリー』ナターシャ、2012年2月20日。2020年1月10日閲覧。
[4]^ 「「ハイキュー!!」8年半の連載に幕!最終巻は11月発売、初の大判画集も」『コミックナタリー』ナターシャ、2020年7月20日。2020年7月20日閲覧。
[5]^ “ハイキュー!!:コミックス累計7000万部突破 完結後も人気衰えず ファン感謝イベント「ハイキュー!! FAN PARK」2025年6月開催”. まんたんウェブ. MANTAN (2024年12月22日). 2024年12月22日閲覧。
[27]^ サクライタケシ『すすめ!ジャンプへっぽこ探検隊!』“11話 20ページ”. 少年ジャンプ+. 集英社 (2017年12月21日). 2019年8月10日閲覧。
[28]^ 「バレーボール部員増加は漫画『ハイキュー!!』効果?」『Number Web』文藝春秋、2016年1月18日。2020年1月10日閲覧。
[29]^ 「「ハイキュー!!」ほかジャンプ注目5作品のキャンペーン開催」『コミックナタリー』ナターシャ、2012年11月5日。2020年1月10日閲覧。
[30]^ 大坪ケムタ『少年ジャンプが1000円になる日 出版不況とWeb漫画の台頭』(2018年)24ページ。
[31]^ 「「ハイキュー!の聖地が遠すぎて絶望した方に...」地元・軽米町商工会が案内ブログ」『Jタウンネット 岩手県』ジェイ・キャスト、2014年4月22日。2020年1月10日閲覧。
[32]^ “人気漫画「ハイキュー!!」“聖地”の軽米町に「待った」 著作権問題で慎重対応へ”. デーリー東北 (2024年9月5日). 2024年9月5日閲覧。
[33]^ ハイキュー!! 岩手県軽米町の聖地紹介 - Yahoo!ブログ - 軽米町商工会[リンク切れ]
[34]^ “【おしらせ】10/7「二戸-軽米線」臨時バスの運行”. ジェイアールバス東北. 2017年8月29日閲覧。[リンク切れ]
[35]^ JRbus_tohokuの2017年9月19日14:46のツイート、2020年1月10日閲覧。
[36]^ 葦原大介『ワールドトリガー オフィシャルデータブック BORDER BRIEFING FILE』332ページ。
[37]^ 『週刊少年ジャンプ』2019年14号120ページ。
[38]^ 「【オリコン】『ハイキュー!!』コミック&ノベライズがW首位 史上4作目」『ORICON NEWS』oricon ME、2014年10月9日。2020年1月10日閲覧。
[39]^ 「【オリコン】『ハイキュー!!』コミック&ノベライズが2度目のW首位を達成」『ORICON NEWS』oricon ME、2015年5月7日。2020年1月10日閲覧。
[40]^ 「【年間書籍市場】コミック売上額が過去最高2815.1億円 前年比104%で2年連続増」『ORICON NEWS』2015年1月23日。2020年1月10日閲覧。
最終更新 2025年11月30日 (日) 06:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


≪くだめぎ?≫
 "バレーボール"= 排球(はいきゅう)
と今回、認識した次第。
 今回、"全国"の古舘 (ふるだて) さんの聖地が軽米町になった、
という認識しかない私である・・。
Posted at 2025/12/01 16:12:29 | コメント(0) | トラックバック(0) | バス | クルマ
2025年12月01日 イイね!

巨大廃墟がそびえる…「千里中央」駅

巨大廃墟がそびえる…「千里中央」駅新大阪駅から15分なのに巨大廃墟がそびえる…
「消えた終着駅」が映し出す昭和のニュータウンの栄枯盛衰
プレジデントオンライン / 2025年8月21日 18時15
廃墟状態のセルシー。数々のアイドルが立った伝説のステージのいま - ©鼠入昌史
電車の「終着駅」には一体何があるのか。ライター・鼠入昌史さんの新刊『ナゾの終着駅』(文春新書)より、2024年まで大阪メトロ御堂筋線の終着駅として多くの新幹線ユーザーが目にしてきた千里中央駅の様子を紹介する――。
■新幹線ユーザーにとってナゾの駅
 以前、千里中央駅にやってきたときは、終着駅だった。
 新大阪駅で新幹線を降りて、地下鉄の御堂筋線に乗り継ぐ。だいたいの場合は大阪の中心部、梅田やなんば、天王寺方面に向かう電車に乗るのだが、千里中央駅はそれとは反対の終着の駅。だから、大阪の人はもとより新幹線でたまに大阪にくるような人にとっても、千里中央という駅は気になる駅のひとつとしてすり込まれているに違いない。
 千里中央駅、近くに住まいや職場があるわけでもない限り、まず訪れる機会はないだろう。全新幹線ユーザーにとってのナゾの駅。千里中央駅は、そう位置づけられる駅だった。
 ここでいくらか細かい話をしておくと、地下鉄御堂筋線は江坂~なかもず間を結ぶ。途中には新大阪や梅田はもちろん、淀屋橋に心斎橋、なんば、天王寺といった大阪を代表する町が目白押しという、押しも押されもせぬ市内交通の大動脈だ。
■1970年の大阪万博に合わせて開設した路線
 そんな御堂筋線が北に伸びて、江坂駅以北は北大阪急行という別路線になる。1970年に千里丘陵で開かれた大阪万博に合わせ、来場者輸送のために建設されたのがはじまりだ。当時から御堂筋線の電車はすべて北大阪急行に直通しているから、実質的には御堂筋線の一部といっていい。万博終了後に現在の位置に千里中央駅が開業して以来、半世紀以上にわたって御堂筋線の終着駅であり続けてきた、というわけだ。
 ところが、2024年の春に北大阪急行が箕面萱野駅まで延伸。それまで千里中央駅発着だった電車はすべて箕面萱野行きになって、新大阪駅で千里中央駅の名を見ることはなくなってしまった。
 だから、「ナゾの終着駅」という本稿の趣旨からすれば行くべき駅は箕面萱野駅、ということになる。ただ、箕面萱野駅は新しすぎる。終着駅に期待しがちな寂しさや郷愁といった要素はまだ持ち合わせていない。
 御堂筋線ユーザーにとって、まだ千里中央駅が終着駅のような感覚なのではなかろうか。だから、まずは千里中央駅からはじめようと思う。それにいちおう、大阪モノレールの彩都線、朝夕は千里中央駅を終着とする列車が走っていますしね。
■上品な雰囲気漂う吹き抜けのターミナル
 千里中央駅は新大阪駅からたったの15分。新御堂筋をまっすぐ北に向かって走る。
 ずっと新御堂筋を行き交うクルマと仲良く並んで走って、千里中央駅の手前で地下に潜り、大阪中央環状線・中国自動車道と新御堂筋が交差するインターチェンジの下を抜けると駅に着く。地下のホームの真上は改札フロアまでどーんと吹き抜け。ホームを見下ろすように通路があって、どことなくおしゃれな雰囲気だ。これが大阪、北摂のターミナルということか。
 千里中央駅は「せんちゅうパル」という商業施設に包まれている。改札口を出て上っていくと、南北に細長いせんちゅうパルのだいたい真ん中に出る。吹き抜けのエスカレーターまであって、外のペデストリアンデッキに出てみると正面には阪急百貨店が鎮座していた。
 せんちゅうパル自体もまるで神殿のようなデザインで、やはり千里中央は上品さを感じさせる駅なのである。
■2分も歩けばのどかな住宅地が広がる
 ペデストリアンデッキから駅の周りを見上げてみると、背の高いビルがいくつも取り囲んでいる。タワマンなのか、それともオフィスビルなのか。駅のすぐ北にはヤマダデンキ。その周りは緑の多い住宅地だ。
 一見するといかにも古い昭和の団地があったり、比較的真新しく見えるマンションがあったり。小さな子どもを連れたお母さんが歩いていたり、お年寄りが集まって歩いていたり、商業施設と背の高いビルに囲まれた駅から2分も歩けばのどかな住宅地が広がっている。
 千里中央駅には御堂筋線(北大阪急行)に加えて大阪モノレールも乗り入れている。モノレールの千里中央駅に向かっては、せんちゅうパルの中を抜けて南に歩いていけばいいと案内されている。
 言われたとおりに歩くと、ほどなくせんちゅうパルの外に出て、広々としたデッキの上を進むことになる……のだが、そこで目に入ったのは巨大にして存在感はバツグンなのに、まったくひとけがなくて閉鎖されている廃墟状態の建物であった。
 千里中央の駅前に広がるこの建物、2019年まで営業していた千里セルシーという商業施設だ。開業したのは千里中央駅から遅れること2年後の1972年。以来、半世紀にわたって千里中央の町のシンボルのひとつだった。
■かつての新人アイドルの聖地は廃墟となった
 ピーク時には120ものテナントが入っていて、他にもボウリング場にプール、サウナ、映画館。中央のセルシー広場ではアイドルなどのコンサートイベントもたびたび行われていたという。
 千里セルシーでイベントをやったアイドルや歌手はまさに錚々たる面々で、古くは堀ちえみ、光GENJI、比較的新しいところではモーニング娘。、三代目 J SOUL BROTHERSも千里セルシーでパフォーマンスを披露している。
 2011年2月にAKB48のユニット・渡り廊下走り隊7がやってきたときには7000人が集まり、2013年にはEXILEが1日1万枚ものCDを売り上げた。何でもこの千里セルシーのステージでイベントをすると“売れる”というちょっとした都市伝説のようなものもあったというから、駆け出しのアーティストやアイドルにとっての聖地だったのだろう。
 しかし、いまの千里セルシーはすっかり廃墟になった。閉鎖されたのだから当たり前なのだが、せんちゅうパルのデッキから見下ろすひとけのないステージはなかなかに切ない。120もあったテナントは末期には60店舗にまで減り、最後は老朽化を理由に閉鎖されてしまった。
■大阪市の人口が100万人増加した1950年代
 千里中央には他にもせんちゅうパルに阪急百貨店があり、加えていまや廃墟と化した千里セルシー。北摂のターミナルらしく、いくつもの商業施設が駅を取り囲む。これはいったいなぜなのだろうか。
 古い航空写真や地図を見れば一目瞭然、1960年代はじめごろの千里中央駅付近はほとんど何もない丘陵地であった。雑木林がほとんどで、筍や果樹が特産だったという。開発がはじまるまでは、大阪府のモデル果樹筍産地に指定されているくらいだった。
 だが、1958年に千里ニュータウンの開発が決定する。
 戦争直後の混乱期を抜けて、朝鮮戦争の特需景気がはじまると大阪の人口が爆増。大阪市は1950年代の10年間で約100万人も人口が増えている。とうぜん住宅不足が社会問題化し、戦前までは田園地帯だった周辺都市が続々と都市化してゆく。
 しかし、10年で100万人も増えた人口を吸収するのにはとうてい間に合わない。そこで雑木林に覆われていた千里丘陵を大規模なニュータウンに改造することが決まった。開発当初の計画では千里ニュータウンは1150ヘクタールの敷地に15万人が暮らす町。もちろん交通機関の整備も重要なテーマで、そのひとつが地下鉄御堂筋線の延伸であった。
■ニュータウンの中心として開業した駅
 ただし、千里ニュータウンが1962年にまちびらきをした時点では御堂筋線の延伸は果たせておらず、まず先行して阪急千里線が延伸、加えて路線バスによってニュータウンの交通を担っていた。
 そうして開発が進む最中の1965年に千里丘陵は万博の開催場所に決定。御堂筋線の延伸は、1970年の万博開催に合わせて進められることになったのだ。
 かくして1970年、千里ニュータウンの中心として千里中央駅が開業する。北大阪急行は万博へのアクセスを最初の役割にしていたから、千里中央駅は仮の駅舎。大阪中央環状線に沿って万博会場(いまの万博記念公園)まで線路を延ばしていた。
 万博期間中、北大阪急行は実に4148万1175人もの来場客輸送をしたという。とりわけ閉幕間際の9月5日には、終電出発後にも駅周辺や会場内に約15万人のお客が残ってしまうほどの混雑ぶりだったとか。とにかく北大阪急行は、開業するやいなや万博によって大いに面目を施したのである。
■最盛期には13万人が住んでいた
 万博閉幕後、千里中央駅は現在の場所に移って本格的に終着駅となり、現在のせんちゅうパルや阪急百貨店なども開業。遅れて1972年には千里セルシーも誕生し、名実ともに千里ニュータウンの中核になっていく。
 すでに1964年に開業していた東海道新幹線の新大阪駅と15分という利便性もまた、千里中央にとって大きな強みだったのだろう。計画の15万人には及ばなかったが、1975年にはニュータウンの住民が約13万人に達する。その中心の千里中央、いくつ商業施設があっても、余ることはない。千里セルシーも、そうした中で歴史を刻んできたのだ。
■50年でニュータウンは「オールドタウン」に
 千里ニュータウンに入居したひとたちは、多くがいわゆる核家族であった。ニュータウンというと近所づきあいに乏しい無機質な町というイメージを抱く人もいるかもしれないが、時代は昭和。団地の中で同じ階段を共有する人たち同士で旅行に行くほど親密な関係性を築いていたという。
最初はフロなし住宅も多かったが、1970年代以降増改築が行われてフロもできた。全戸水洗トイレも特徴のひとつで、家の近くには日常利用に便利なスーパーもあって、千里中央に行けばレジャータウン。緑地も多く、当時の住環境としては実に恵まれていた。
 ただ、それが祟った……というと言葉が悪いが、住環境の良さは住民が長く定着する結果をもたらした。住民の入れ替わりがほとんどなく、新陳代謝が進まなかったということだ。そうして1980年代から住民の高齢化という課題が浮上し、いつしか“オールドタウン”などと呼ばれるようになってしまう。
 千里中央駅の周りを歩いていると、実に古めかしい昔ながらの団地群があるかと思えば、すっかり装いを改めた真新しいマンションのような建物も見える。うまく建て替えに踏み切れたところと、そうでないところ。日本中の団地が抱えているコントラストを、千里中央も抱えている。
 そうした時代の変化は、駅を取り囲む商業施設にも影響を及ぼす。かつて万博の会場で、2009年までエキスポランドとして営業していた一帯が再開発。2015年にららぽーとEXPOCITYとしてオープンした(2022年にリニューアル)。
 ららぽーとという家族でクルマで遊びに行ける施設ができれば、そちらに人が流れるのもとうぜんのこと。50年の歴史を刻む千里中央と比べれば、若い人たちにとってもEXPOCITYのほうがいいにきまっている。
 こういった事情もあって、千里セルシーが“新しい町のレジャーセンター”だった時代は過去のものになった。老朽化なりなんなり、閉鎖された理由は別にあろうが、いまの千里中央駅前の千里セルシーは、そういったニュータウンの栄枯盛衰を象徴しているのかもしれない。
 千里中央は、いわば“落日のターミナル”といっていい。2024年、北大阪急行が延伸して終着駅ではなくなったのも、まるでそうした状況を象徴しているかのようなできごとでもあった。
■対照的に賑わう“本当の終着駅”
 では、新しく生まれた終着駅、箕面萱野駅はどうなのか。
 箕面萱野駅は、「みのおキューズモール」という大型商業施設に直結している高架の終着駅だ。すぐ北には北摂の山々が迫って見えて、箕面の中心市街地(阪急箕面線箕面駅付近)をはじめとする各方面への路線バスも分かれている。
 みのおキューズモールは、千里セルシーの廃墟化とは裏腹に、まったく多くの客で賑わっている。実は開業は2003年とちょっと古いのだが、駅の開業によってさらに集客力をアップさせた。映画館も入っているような、北摂一帯でも最大規模の商業施設だ。
 箕面萱野駅まで足を延ばし、みのおキューズモールの賑わいの中に身を置くと、どうしても考えずにはいられない。千里セルシーも、1972年の開業時、千里ニュータウンが最も活気に満ちていた時期には、いまのみのおキューズモールに勝るとも劣らない賑わいだったのではないか、と。
 時代の変化は、ときに残酷である。いつしか箕面萱野駅も大きく姿を変える日がやってくるのかどうか。それはまだ、遠い未来の物語である。
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鼠入 昌史(そいり・まさし) ライター
1981年、東京都生まれ。文春オンラインの「ナゾの駅」シリーズはじめ、週刊誌・月刊誌・ニュースサイトなどに様々なジャンルの記事を書きつつ、鉄道関係の取材・執筆も行っている。阪神タイガースファンだが好きな私鉄は西武鉄道。著書に『トイレと鉄道』(交通新聞社)、『それからどうなった? あのころ輝いた場所の「今」を歩く』(理工図書)、『鉄道の歴史を変えた街45』(イカロス出版)など。
----------(ライター 鼠入 昌史)


≪くだめぎ?≫
 当地から、大阪・関西・近畿は遠い、すぐに実感しない。
 しかし、
「大阪市は1950年代の10年間で約100万人も人口が増えている。」
とくれば、当時の人口集中ぶりに驚くばかりである。
 千里中央駅・「千里セルシー」は"聖地"になるのは当然だろう。
現終着駅「箕面萱野」駅"みのおキューズモール"(2003年開業)、により風向きが変わり、落ちてきたようである・・。
Posted at 2025/12/01 15:06:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道 | 旅行/地域
2025年11月21日 イイね!

『九戸城跡』

『九戸城跡』[写真・画像]
(上)九戸城跡俯瞰図
(下)九戸城航空写真
 市の中心部にある九戸城跡は昭和10年に国の指定を受けた史跡です。この城は九戸政実の4代前の光政が築いたとも言われ、豊臣秀吉天下統一の最後の合戦場となりました。城跡には、東北最古とみられる石垣遺構が残っています。

【九戸城跡に関するQ&A】
 1.
Q:なぜ二戸市にあるのに九戸城なのでしょう?
A:九戸氏の居城=九戸城です。もとは現在の九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、その後九戸の地と福岡地方を同時に統治するようになりました。
 2.
Q:なぜ史跡の名称は福岡城ではなく九戸城なのでしょう?
A:地元の九戸氏への強い思い入れです。百年以上治めた九戸氏に対し、南部公は短期間で盛岡へ移った事や、九戸方の悲壮な最期を目の当たりにした人々の思いは、謀反人であっても密かに弔い続けた事を記す古碑にも現れており、あえて「九戸城」と呼び続けたのです。
 3.
Q:九戸城に天守閣はあったの?天守閣の復元はするの?
A:現在復元の予定はありません。今の姿は福岡城ですが、発掘調査では瓦の出土も無く、天守や櫓があったか不明です。それより前の九戸城にはおそらく板葺きの櫓がありましたが、絵図等も無く場所が不明です。建物の復元は確実な考証が必要で、確実な建物は礎石を残す本丸の門と橋で、こちらが復元される可能性はあります。
 4.
Q:石垣のある堀には水はあったのでしょうか?
A:空堀です。本丸と二ノ丸の間の堀は、豪雨があっても地盤の水はけがよく、水はたまりません。
 5.
Q:上方軍の謀略撫で斬りは本当ですか?
A:二ノ丸跡の発掘調査で首を刎ねられて無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が出土しており、実際に撫で斬りにされたと思われます。

【九戸城(福岡城)の特色・構造】
 九戸城には、東北地方の中世の城と近畿地方の近世の城の特色が見られます。地形を活かし曲線的な九戸城の中に直線的に改修された福岡城の部分があります。
 三方を川に囲まれた平山城で、約36万m2(指定地21万m2)、東京ドームの約10倍です。
 九戸城旧来の姿を留めるのは若狭舘・外舘等で、本丸は改築された福岡城であることが解っています。本丸は二ノ丸より一段高く土を盛って築かれており、この盛り土から焼けた生活用品や火縄銃の弾丸が出土し、明らかに合戦後の整地です。堀沿いに土塁と石垣が巡り、土塁の高く広い部分は隅櫓跡です。東の追手門は、門と木橋があったところで、南にも二ノ丸と地続きの虎口があります。二ノ丸は、本丸の東と南を囲む形で築かれ、周囲に土塁、南に大手門、北には搦手(からめて)門があります。本丸の西側下は三ノ丸で今は市街地です。松ノ丸は、人工の堀で囲まれ、土塁の一部が残り、南東には武家屋敷の在府小路に面して大手門があります。
 以上 岩手県二戸市より

≪くだめぎ?≫
 「二戸駅」=「北福岡駅」であり、
「福岡町」と言ったら『九戸城』である。
 九戸郡を治めた南部氏の一族が九戸氏を名乗り、
九戸氏の居城=九戸城を築いた。
 南部氏の一族であるけれど・・。
Posted at 2025/11/21 10:34:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 地域 | 旅行/地域
2025年10月26日 イイね!

日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」

日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」日本海沿いで活躍する電気機関車「EF510形」
赤・青・銀の3色がある理由は?
2024年6月25日(火) 鉄道コムスタッフ 西中悠基
(上)「日本海縦貫線」を中心に活躍するEF510形0番台
(中)寝台特急「北斗星」のけん引機として活躍していた頃のEF510形
(下)R貨物に譲渡され、流星が消された後のEF510形500番台。画像は、JR東日本時代には入ることの無かったおおさか東線での運用シーンです

 関西圏と東北・北海道方面を結ぶ、通称「日本海縦貫線」(北陸本線(第三セクターへ移管された区間を含む)、羽越本線など)では、近畿地方と北陸、信越、東北地方、そして青函トンネルを超えて北海道を結ぶ貨物列車が、日夜運転されています。その先頭に立つのは、JR貨物のEF510形電気機関車。国鉄時代に製造された車両を置き換えるため、2001年に登場した車両です。
 ところでこのEF510形、赤色の車両と、青色の車両、そして銀色の車両の、3つの色が存在します。なぜカラーリングが複数あるのでしょうか。
 赤色の車両は、当初からJR貨物で活躍する0番台。一方、青色と銀色(日本海縦貫線で活躍する車両のみ)は、もとはJR東日本が導入した500番台です。500番台の製造目的は、寝台特急「北斗星」「カシオペア」のけん引用。老朽化したEF81形を置き換えるため、2009年から2010年にかけて、15両が製造されました。カラーリングは、「北斗星」カラーの青色と、「カシオペア」カラーの銀色の2種類。いずれも側面に流星を描いていました。
 JR東日本のEF510形は、2010年に特急列車のけん引を開始。当時はJR東日本が受託していた貨物列車の運用もあり、旅客列車用に製造された機関車が貨物列車をけん引する姿が見られました。この運用開始により、EF510形はEF81形の定期運用を置き換えた……はずでした。
 しかし、2013年には貨物列車の受託が終了し、EF510形は早くも一部が余剰に。これらはJR貨物に売却され、貨物けん引用機関車に役割を改めました。さらに2015年の「北斗星」廃止、2016年の「カシオペア」定期運用終了によって、JR東日本のEF510形は定期運用を喪失。最終的に、全15機がJR貨物に譲渡されたのです。同形式の導入時点で、北海道新幹線開業時の寝台特急廃止は想定されていたはずで、EF510形の売却も、当初から織り込み済みだったと考えられます。
 そうしてJR貨物に譲渡された元JR東日本の車両は、側面の流星マークは撤去されたものの、青や銀といったベースの色はそのままに、JR貨物仕様に改修されました。現在では、生え抜き車も譲渡車も区別なく運用に就いており、JR東日本時代には入線することのなかった中京圏や関西圏にも、日常的に乗り入れています。カラーバリエーション豊かなEF510形ですが、複数の塗装があると管理上のコストが掛かります。今後の大規模検査などで塗装が塗り直される際、500番台の独自塗装は消滅してしまうかもしれません。
 ちなみに、2023年にはもう一つの「銀色のEF510形」として、300番台がデビューしています。こちらは主に九州で活躍するグループで、車両の色は「銀釜」ことEF81形300番台をイメージしたもの。今後、EF81形、ED76形の置き換えのため、導入が進められます。

≪くだめぎ?≫
 「八菜館」の後ろに"赤色"のEF510形0番台が見えた。EF510形500番台も入ってくるが、銀色の車両「カシオペア」色は実は見たことはない・・、実は貴重だ。青森信号場を経由して大阪から八戸貨物駅にやってくる。
 逆に当地での主流EH500が秋田貨物駅まで奥羽本線を南下する。

個人的には、交流区間の片方上昇パンタグラフ姿が
馴染んでいるし、その姿の画像がもっと多くてもよいと思うが・・。
Posted at 2025/10/26 08:06:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | 鉄道貨物 | 旅行/地域

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