
日本フォード フェスティバミニワゴン
1996年8月~2003年12月
(平成8年8月~平成15年12月)
GAZOO カタログ より
マツダ「5つのブランド」はなぜ消えたのか?
──バブル期の乱立戦略“クロノスの悲劇”をご存じか
2025.11.22 ミゾロギ・ダイスケ(懐古系ライター)
マツダは1990年代、国内販売80万台を目指し5チャンネル体制を拡張したが、複雑なブランド構造とバブル崩壊で失速。ロードスターのみが輝きを放ち、後のトヨタ・レクサス戦略はこの失敗を反面教師に成立している。
■センチュリー独立戦略
2025年10月13日のトヨタイムズ生放送で、トヨタ自動車は「センチュリー」を「レクサス」の上位に位置づける独立ブランドとして扱うと発表した。
レクサスの場合、「レクサス LS」のように車名にトヨタを付けず、販売店やサービスも通常のトヨタ販売網から切り離して運営されている。発表時点では、センチュリーの販売チャネルの詳細は明示されていないが、専用ブランドサイトでは「TOYOTA」のロゴを前面に出していない。
この展開は、“一強”ともいえるトヨタならではの戦略に見える。しかし実際には、マツダもかつて同様のブランドプロジェクトを試みたことがある。
しかも、マツダはひとつのブランドに絞らず、複数を同時に立ち上げていた。だが、ブランドを十分に育てる前に短期で失速した。この失敗プロジェクトはどのようなものだったのか。
■国内販売の強化戦略
1987(昭和62)年12月、バブル経済は膨張の最中だった。当時、マツダはプラザ合意後の急激な円高で輸出採算が悪化していた。このタイミングで経営トップが入れ替わる。
ロータリーエンジン開発の立役者だった山本健一氏は社長から会長に退き、通産省(現・経産省)出身の古田徳昌氏が新社長に就任した。さらに住友銀行出身の副社長・和田淑弘氏が経営に深く関与する、事実上の3トップ体制が構築された。
1988年5月、この経営陣は全社の中期計画「MI(マツダ・イノベーション)計画」を開始した。当時約40万台だった国内販売を80万台(シェア約10%)まで引き上げる拡大策を掲げ、販売網と車種を一気に増やす戦略を打ち出した。
マツダはもともと、「マツダ」、セカンドラインの「マツダオート」、さらに「オートラマ」という三つの販売チャンネルを持っていた。オートラマは1981年に立ち上がり、目的は「フォード車を日本市場で販売するための販路確保」にあった。米国のフォード・モーターは自社ブランド車の日本販売を模索していたが、ゼロから専用ディーラー網をつくるより、マツダの既存販売網を活用する方が効率的だと考えた。
そこでマツダは既存の販売会社や店舗の一部をオートラマとして再編し、マツダOEMの日本製フォード車を中心に扱う専門店として展開した。「フォード・テルスター」「フォード・レーザー」「フォード・フェスティバ」といった車種があった。その後、1980年代後半にはフォードの輸入モデルも取り扱うようになった。派手なテレビCMも流し、「オートラマへ、愛に恋。」というキャッチコピーを長く用いた。アイドルグループ「セイントフォー」とのタイアップも行い、「フォード・レーザー1500スーパースポーツ“セイントフォー”スペシャル」という商品も発売した。一連のCMではフォードのロゴを大きく露出させていた。しかし、店名にフォードが入らないオートラマが、どのような店なのか大衆に十分伝わっていたかは疑問が残る。
マツダは国内販売を80万台に引き上げる拡大策の一環として、既存のマツダ、マツダオート、オートラマに、新たに「ユーノス」と「オートザム」の2チャンネルを加え、国内5チャンネル体制を整えた。チャンネル数としてはトヨタと同等で、3チャンネル時代から販売店網を大幅に拡充する大攻勢だった。
新チャンネルのひとつユーノスは、当時のマツダ本体が十分に取り込めていなかった都市部の中間層や輸入車志向の顧客向けに、もう一段おしゃれで上質なラインを示す狙いがあった。特徴的なのは、車名の先頭からマツダをあえて外し、ユーノスとして展開した点である。上級パーソナルクーペは「ユーノス・コスモ」として提示された。ユーノスというブランド名はバブル期の空気に乗り、なんとなく外国車風の都会的な印象を与えた。
特にアイコンとなったのが、2シーターのオープンタイプライトウェイトスポーツカー「ユーノス・ロードスター」だ。1970年代後期のスーパーカーブームを経験した世代には、リトラクタブル・ヘッドランプの造形が印象的だった。価格は170万円前後と手が届きやすく、多くの顧客の関心を集めた。
その後、各国メーカーが中小型オープンカーを投入する追随を見せるなど、ロードスターは5チャンネル体制を代表する成功作となった。ただし、ロードスター目当てで来店した客が「ほかのモデルもいい」と横に流れるようなラインナップは十分ではなく、ユーノス全体のブランド拡張にはつながらなかった。
■輸入車混在の販売構造
オートザムは軽自動車や小型車を扱うブランドとして設立された。車名は「オートザム〇〇」と揃え、マツダの名は冠していない。「オートザム・キャロル」は日産のパイクカーに通じるデザインで人気を集めた。「オートザム・AZ-1」は国産では非常に珍しい量産ガルウイング車だった。「オートザム・レビュー」のCMには当時のCMクイーン、小泉今日子を起用した。
1990(平成2)年以降はイタリアのランチアやアウトビアンキの輸入車も販売しており、軽自動車を見に来た客の横に、サイズも価格帯も異なるイタリア車が置かれるという構造になっていた。名前が似たオートラマと同様に、「何の店なのか」が十分に伝わっていたかは疑問が残る。
ただ、5チャンネル体制の初期はバブル期と重なったこともあり、一定の成果はあった。1990年前後、日本の新車市場が史上ピークに達した局面で、マツダの国内販売も高水準に達したのである。
さらにマツダは1991年、マツダオートを「アンフィニ」にリブランディングした。こちらもマツダを外し、フランス語で「無限」を意味するアンフィニで統一した。ロータリーエンジン搭載のスポーツカー「アンフィニ・RX-7」、ミニバン「アンフィニ・MPV」、上級パーソナル系の「アンフィニ・MS-6」「MS-8」「MS-9」などを展開し、5チャンネルの中でやや上位のイメージを担わせようとした。
しかし「都市型で少し上質」という方向性はユーノスと重なり、ブランドごとの役割の違いは明確ではなかった。
■バブル崩壊による5チャンネル縮小
整理すると、1991(平成3)年の時点でマツダは日本市場向けに、マツダ開発・生産車両(他社OEM含む)をマツダ、アンフィニ、フォード(オートラマ扱い)、ユーノス、オートザムの5ブランドで同時販売していた。
しかし、バブル崩壊の影響が自動車販売にも明確に出始めた1992年ごろから、国内市場全体が縮小し、マツダの販売も同じように落ちていった。1991年に北米向け高級ブランド「アマティ」を発表したが、1992年には資金難で計画を中止している。1993年度からマツダの経営は深刻な状態になった。市場要因に加え、5チャンネル特有の負担も重なり、体制維持は困難となった。
5チャンネル特有の負担としては、大規模な販売網拡大による設備投資や人件費が重くのしかかったことがある。さらに、販売チャンネルだけでなくブランドまで細かく分けたため、車種も増え、開発コストを含めた経費が膨らんだ。営業や宣伝もブランドごとに別建てで用意する必要があり、1台あたりにかけられる力は薄まった。ユーノス・ロードスターのようなヒット作は生まれたが、それ以外のモデルは知名度を十分に上げられなかった。
戦略上の大きなミスもあった。1991年、主力の5ナンバー中型セダン「マツダ・カペラ」の後継を、ひと回り大きい3ナンバー車「マツダ・クロノス」に置き換えた。これにより、需要の厚い5ナンバー級の柱を自社ラインアップから外すことになった。さらに5チャンネル化で、アンフィニMS-6、フォード・テルスター、オートザム・クレフ、5ナンバーのユーノス500など、カペラ相当の領域を分散させてしまった。その結果、各系列は稼げる中心車を欠き、共倒れに近い状況を招いた。この一連の失敗は「クロノスの悲劇」と呼ばれた。
加えて、ユーノスとアンフィニは路線が近く、オートラマはフォード車を扱いながらブランド名にフォードを冠さず、オートザムは軽・小型車に加えてランチア車まで扱ったため、名前が似ているうえに「何の店か」が伝わりにくかった点もマイナス要因となった。
■複数ブランドの消滅
1990年代後期になると、5チャンネル体制の再編が本格化する。1996(平成8)年4月、重複する要素のあったユーノスをアンフィニ系列に統合し、看板をマツダアンフィニに改めた。ユーノス専売だった車種もこのルートに吸収され、販売チャネルとしてのユーノスは事実上消滅した。1997年7月には、残っていたユーノス800がマツダ・ミレーニアに改名され、車名からもユーノスが消えた。
同じころ、オートラマはフォード色を強める再編に入り、マツダ5チャンネルの一角という位置づけから徐々に外れた。1997年には社名を「フォードセールスジャパン」に変更し、1999年には「フォード・ジャパン・リミテッド」の設立でフォード直営体制へ移行した。
1998年4月にはオートザムをマツダ本体系列に整理し、「マツダオートザム」とした。「オートザム○○」の車名表記も段階的に「マツダ○○」へ移行した。以後はマツダ、マツダアンフィニ、マツダオートザムの実質3本が残ったが、扱う車種の差は年々小さくなり、アンフィニも高級チャネルとしての独自性を失った。こうして1990年代末には、バブル期に増やした「マツダを冠さない複数ブランド」はほぼ姿を消し、車名としてはマツダに集約された。5チャンネル時代の最大のスターは現在、マツダ・ロードスターである。
トヨタがレクサスを国内で本格展開した時点で、マツダ5チャンネル戦略は壮大な失敗例として共有されていた。これを反面教師にしたかは不明だが、トヨタはレクサスを一本化し、「トヨタとは別の高級ブランド」という色を最初から明確にし、一貫させている。
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≪くだめぎ?≫
「オートラマ店」
・初代フェスティバ(1986年2月 - 1993年1月)
・フェスティバ ミニワゴン(Festiva miniwagon)(1996年8月 - 2003年12月)
のイメージが強い。
1994(平成6)年 「オートラマ店」→「フォード店」名称変更
2002年に輸入フォード車販売へ切り替えた。
当地の元「オートラマ店」は同敷地に新たに
「マツダオートザム店」を設置。フォード車・マツダ車の併売に入る。
マツダ・デミオの販売を"継続"したい為と言われている。