ごぶさたしてます。
今回は本の紹介です。
自分なりにメルセデス・ベンツのレースの歴史を知りたかったので、本を読んでみました。
「MERCEDES-BENZ RACING HISTORY」 三樹書房刊 1,750円(税込)
アルフレート・ノイバウア著 橋本茂春翻訳
表紙は1952年型300SLプロトタイプ(W194) (カレラ・パナメリカーナ・メヒコ出場車)
この本は1926年から1955年まで、メルセデス・ベンツのレーシングチームの監督を務めた
アルフレート・ノイバウアさんのドイツ語著書「男と女と車」の英訳本を翻訳したものです。
この本を読むと、アルフレート・ノイバウアという人がほんとにルドルフ・カラッチオラのことが好きだったんだなということが、よくわかります。また、カラッチオラが偉大なドライバーであったことも。
「ファンジオやスターリング・モスでさえ、カラッチオラやシュトックやヘルマン・ランクやローゼマイヤーほど光ってはいなかった」というノイバウアさんの言葉から、命がけで走っていた戦前のドライバーの
すごさが伝わってきます。
単なるレースの結果だけでなく、各レーシングドライバーの性格や情事まで書かれているので、まるで当時にタイムスリップしたかのような気になります。
もう一冊は
「メルセデス・ベンツ 歴史の残るレーシング活動の奇跡 1894-1955」
三樹書房刊 2,520円(税込) 宮野 滋 著

表紙はF1マシンの1955年型W196R (ドライバーはファン・マヌエル・ファンジオ)
レースの詳しい結果は、こちらの本のほうが詳しく載っています。写真もたくさんあって、いいですね。
ここから先は、2冊の本+自分で調べた情報を私の備忘録として残したものです。
もし記載の誤りがあっても、ご容赦ください。
写真はあえて載せていません。
1891年 3月29日 メルセデス・ベンツ監督、アルフレート・ノイバウア(ドイツ)が生まれる。
1892年11月16日 GPドライバー、タツィオ・ヌボラーリ(イタリア)が生まれる。
1898年 6月 9日 GPドライバー、ルイジ・ファジォリ(イタリア)が生まれる。
1899年 8月 3日 GPドライバー、ルイ・シロン(フランス)が生まれる。
1901年 1月30日 GPドライバー、ルドルフ・カラッチオラ(ドイツ)が生まれる。
1904年 GPドライバー、アキッレ・バルツィ(イタリア)が生まれる。
1906年 6月15日 設計者ルドルフ・ウーレンハウト(ドイツ)が生まれる。
1906年10月30日 GPドライバー、ジュゼッペ・ファリーナ(イタリア)が生まれる。
1909年10月14日 GPドライバー、ベルント・ローゼマイヤー(ドイツ)が生まれる。
1911年 6月24日 GPドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)が生まれる。
1913年 7月13日 GPドライバー、アルベルト・アスカリ(イタリア)が生まれる。
1929年 9月17日 GPドライバー、スターリング・モス(イギリス)が生まれる。
1914年-1918年 第一次世界大戦 ノイバウアも前線に送られる。
軍用車の整備をする中で、フェルディナント・ポルシェ博士と知り合う。
1918年 アルフレート・ノイバウア(27歳)は第一次大戦後、フェルディナント・ポルシェ博士
より、アウストロ・ダイムラー社のロードテスト部の仕事をあてがわれる。
1922年 FIAの前身であるAIACR(Association Internationaledes Automobile Club
Reconnus)がグランプリ・フォーミュラーの規定を以下に定めた。
排気量2リッター
車重650kg以下
1922年 4月2日 タルガ・フローリオ
アルフレート・ノイバウア(31歳)がレースデビュー
マシンはポルシェが設計したサーシャ1100cc4気筒DOHC 50馬力
1922年末 ダイムラー社よりパウロ・ダイムラーが去り、フェルディナント・ポルシェが
アウストロ・ダイムラー社より移籍する。
1923年 6月 ルドルフ・カラッチオラがダイムラーのレースチームに加入
初めてノイバウアと知り合う。
1923年 9月 スピード・ヒルクライムでルドルフ・カラッチオラが優勝
1924年 4月27日 タルガ・フローリオ
優勝 クリスチャン・ヴェルナー
10位 クリスチアン・ラウテンシュラーガー(クラス2位)
15位 アルフレート・ノイバウア(クラス3位)
マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
120馬力/4500rpm
1924年 9月14日 ウィーン近郊のゼメリンク・ヒルクライム
優勝 クリスチャン・ヴェルナー 6分55秒6
5位 アルフレート・ノイバウア 7分34秒4
マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
120馬力/4500rpm
1924年10月19日 イタリアGP(モンツァ)にて2リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャー
ジャー160馬力仕様のマシンがデビューしたが、ドライバーのエリオット・
ズボロウスキー伯爵が立ち木に激突して死亡。出場していた他の2台も棄権。
1926年 ・AIACRにより規定が以下に変更される。
排気量1.5リッター以下
最低重量600kg
・アルフレート・ノイバウア(35歳)がメルセデス・ベンツ レーシングチームの
マネージャーとなる。
1926年 7月 1日 ダイムラー社とベンツ社が合併し、ダイムラー・ベンツ社となる。
1926年 7月11日 第1回ドイツGP (ベルリン・アフスサーキット)
ルドルフ・カラッチオラが優勝、賞金17,000マルク(昭和元年の邦貨で7,160円)を
手にする。カラッチオラにとっては初めての大きな国際レースでの優勝。
マシンは1924年にポルシェ博士が設計した2リッター直列8気筒4バルブDOHC
スーパーチャージャー160馬力/6000rpm仕様のマシン
1926年 9月 ベルリンの高級商店街にあるダイムラー・ベンツのショー・ルームのクルフェルシュ
テンダムに賞金の17,000マルクを投資、ベルリンの金持ちレストランの娘シャル
ロット(愛称シャルリー)と結婚する。
1926年 9月12日 ゾリチュードで行われたレースで、初めてドライバーに信号を送ることを試した。
(現在のピットサインの原型)
メルセデス・ベンツは1~3位を独占する。
1927年 6月 ニュルブリクリンクが開設される。一周27.6km、172のコーナー。
1927年 6月19日 ニュルブルクリンクで初レースが開催される。
優勝 ルドルフ・カラッチオラ
2位 クリスチャン・ヴェルナー
3位 アドルフ・ローゼンバーガー
1928年 7月15日 第3回ドイツGP (ニュルブルクリンク)
マシンは「ホワイト・エレファント」180馬力、1~3位を独占する。
優勝 ルドルフ・カラッチオラ、クリスチャン・ヴェルナー
2位 オットー・メルツ
3位 バルプ
4位 ルイ・シロン (ブガッティ)
1929年 8月 RACツーリスト・トロフィー
優勝 ルドルフ・カラチオラ
1929年10月29日 世界恐慌
1930年 経済情勢悪化により、メルセデス・ベンツ レーシングチームはこの年不参加と
なる。この年、アルファロメオのタツィオ・ヌボラーリ、アキッレ・バルツィが台頭し、
バルツィはイタリアチャンピオンとなる。
1930年 ボルディノ杯レース(アレクサンドリア)の優勝争いで、バルツィがヌボラーリを
はじき飛ばし、優勝する。
1930年 4月15日 ミッレ・ミリアでタツィオ・ヌボラーリが優勝
夜間バルツィの後ろをライトを消して走行し、出し抜いた。
このとき優勝者の平均時速が初めて100km/hを超えた。
翌年バルツィはアルファロメオから離れる。
1931年 メルセデス・ベンツはカラッチオラと以下の契約を行った。
契約条件は輸送・修理・タイヤ・燃料の諸経費を会社が負担するかわりに
新車のSSKLを安価で購入し、賞金は会社と折半にするというもの。
1931年 4月12日 ミッレ・ミリアでルドルフ・カラッチオラが優勝
ドイツ人で唯一の勝利となる。
1931年 スペインGPでルドルフ・カラッチオラ優勝
1931年 チェコスロバキアでルドルフ・カラッチオラ優勝
1931年 ケッセルベルクでルドルフ・カラッチオラ優勝
1931年 アイフェルでルドルフ・カラッチオラ優勝
1931年 7月19日 ドイツGP(ニュルブルクリンク)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ
2位 ルイ・シロン (ブガッティ)
1931年 8月 2日 アブスサーキットでのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝
1931年末 経済事情によりメルセデス・ベンツがレース活動を行わないこととなり、
ルドルフ・カラッチオラは解雇される。
1932年 ルドルフ・カラッチオラがアルファロメオに移籍
カラッチオラのみ仲間はずれにされ、ボディカラーが白となる。
1932年 4月 ミッレ・ミリア
ルドルフ・カラッチオラはムッソリーニ杯を獲得するもリタイア。
1932年 4月 モナコGP
優勝 タツィオ・ヌボラーリ
2位 ルドルフ・カラッチオラ
カラッチオラがヌボラーリに勝利を譲り、赤いボディカラーを許される。
1932年 5月 アブスサーキットでのレース
カラッチオラ、移籍後初の赤いアルファロメオに乗っての母国レース
優勝 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツSSKLストリーム・ライン)
2位 ルドルフ・カラッチオラ
1932年 ニュルブルクリンクのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝
1932年 ドイツGP ルドルフ・カラッチオラ優勝
1932年 モンツァGP ルドルフ・カラッチオラ優勝
1932年 ヌボラーリがイタリアンチャンピオンとなるも
バルツィとの私闘が激化。
1932年10月12日 AIACRが新しいフォーミュラーカーの規定を採択する。
・車両重量750kg以下
・幅85cm以下
・排気量制限なし
1933年 ルドルフ・カラッチオラはアルファロメオから、ルイ・シロンはブガッティから解雇
される。
ルドルフ・カラッチオラとルイ・シロンは「スクーデリアCC」というチームを結成し、
2台のアルファロメオを購入し、レースを行うことにした。
1933年 4月 ジョバンニ・カネストリーニというジャーナリストによってヌボラーリとバルツィの
会合が秘密裏にセッティングされ、協定が結ばれて、その後のレースで私闘は
なくなった。
1933年 4月21日 ルドルフ・カラッチオラがモナコGPの練習走行中にマシンのブレーキが利かなく
なり、鉄塔に激突。大腿骨の複雑骨折で入院する。
すぐにボローニャに移され手術するも、右足が5cm短くなってしまった。
1933年 5月 7日 イタリアの植民地、リビアのトリポリに世界で一番高速で、13.2kmのサーキット
が建設され、レースが開催された。
優勝 アキッレ・バルツィ (ブガッティ)
2位 タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオ)
3位 ヘンリー・バーキン卿 (マセラッティ)
このレースでバルツィが八百長を画策し発覚するも、注意のみでお咎めはなし。
1933年 5月 ドイツ・ベルリンにあったアブス・サーキットでのレース
メルセデス・ベンツはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが個人所有のSSKLで
6位に食い込むのがやっとだった。
ここから来年に向けて、新しいフォーミュラーカー規定にあわせたマシンの開発に
乗り出すことをメルセデス・ベンツが決意し、アウトウニオンも開発に着手する。
1933年 9月19日 モンツァGP第2予選、コース上のオイルにのってアルファロメオのカンパーリと
ボルツァキーニがコースオフし、マシンの下敷きになり死亡する。
観衆の要望に押され決勝レースが行われたが、チャイコフスキ伯爵がコース
アウトして木に激突し、頭蓋骨骨折により死亡する。
1934年 アウトウニオンはポルシェ博士設計のミッドシップマシン「Pワーゲン」(通称シル
バーフィッシュ)を製作。
ドライバーはハンス・シュトック、ライニンゲン公、アウギュスト・モンバーガー、
ビルヘルム・セバスチャン
一方、メルセデス・ベンツはFRの「W25」を製作。設計はハンス・ニベル博士。
W25はM25A型3.36リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャージャーで
ボア78mm×ストローク88mm、354馬力/5800rpm。トランスアクスルを採用し、
足回りは全輪独立懸架。
ドライバーはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ、ルイジ・ファジォリ、それから
ルドルフ・カラッチオラについては大腿骨骨折の後遺症がないか、練習走行後の
状態を見て本契約を結ぶこととなった。
1934年 2月 2日 カラッチオラの妻、シャルロット・カラッチオラがスキーで雪崩に巻き込まれ死亡。
カラッチオラはアローサの山荘に閉じこもり、抑うつ状態となる。
ベビー・ホフマン夫人が介護を行った。
1934年 4月 2日 カラッチオラの治療の一環として、同僚のルイ・シロンがモナコGPの直前に走行
できるよう手はずを整え、カラッチオラは12ヶ月ぶりにマシンを走らせた。
1934年 5月24日 アブスサーキットでカラッチオラのテストが行われた。
マシンはW25。
1934年 6月 3日 アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
優勝マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)
カラッチオラは不参加。
W25のデビューレースで規定の750kgをオーバーしていたため、ドイツのナショナル
カラーであった白い塗装をはがし、車検をパスした。「シルバー・アロー」の誕生。
1934年 7月 1日 フランスGP (モンレリー)
優勝 ルイ・シロン (アルファロメオTypoB/P3)
2位 アキッレ・バルツィ (アルファロメオTypoB/P3)
3位 ギュイ・モル (アルファロメオTypoB/P3)
完走はわずか4台、うち3台がアルファ、1台はブガッティだった。
1934年 7月15日 ドイツGPで公開練習中にブラウヒッチュが衝突、頭蓋骨と肋骨3本を骨折。
優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオン)
1934年 8月 5日 スピード・ヒルクライム (クラウゼン・パス)でルドルフ・カラッチオラ優勝。
カラッチオラにとって1933年モナコGPの事故後初の復帰レース。
1934年 8月15日 アチュルボ杯 (ペスカラ)でカラッチオラが横転、リタイア。
優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
1934年 ヒルクライム (フライブルク)
優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
1934年 8月25日 スイスGP (ベルムガルテン)
優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
1934年 9月 9日 イタリアGP (モンツァ) 116周
優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
2位 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
カラッチオラが暑さにやられてしまったため。ファジォりがクルマを乗り継ぎ優勝。
1934年 9月23日 バルセロナGP
優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
ファジォリがチームの指示を無視し、指示通りマシンをいたわるためにペースを
落としたカラッチオラを抜いた。
1934年 シーズン後半にW25は排気量3.91リッターに拡大される。
1934年11月 W25を開発したハンス・ニベル博士が脳卒中により亡くなる。
後任はドライバー経験もある、マックス・ザイラー 。
1935年 W25の排気量が4.31リッターに拡大される。455馬力/5800rpm。
1935年 4月25日 モナコGP
優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
1935年 5月 5日 チュニスGP
優勝 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType A)
1935年 5月12日 トリポリGP
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
2位 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)
1935年 5月26日 アブス・レース
優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
3位 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)
1935年 6月16日 アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
2位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType B)
5位 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25)
ヘルマン・ランクのデビューレース
1935年 6月23日 フランスGP
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
1935年 7月28日 ドイツGP
優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオTypo B/P3)
2位 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンType B)
アウトウニオンのドライバーたちは、女性をめぐってもめ、シュトック、バルツィ、
ピーターはスタートが切られても3台並んで止まったままだった。他のマシンが
行ってかなり経ってからスタートし、シュトックは追い上げるも、たの2台は私闘
を演じ、8・9位に終わった。
1935年 8月15日 スイスGP
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
2位 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
ファジオリがチームの指示を無視しても抜かれないよう、ノイバウアはタイム差を
カラッチオラに教えていた。憤怒したファジォリはメルセデス・ベンツのチームから
離脱する。
1935年 9月29日 マサリック杯レース(チェコ・ブルノ)
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType B)
これがベルント・ローゼマイヤーの初優勝。
1935年末 この年初めて制定されたヨーロッパ選手権でルドルフ・カラッチオラが
チャンピオンになる。
1936年 W25を改良し、「W25K」となる。
排気量を4.74リッターに拡大。473馬力/5800rpm。
ホイールベースをショート化(2460mm)し、リアサスペンションをスイングアクスル
からトーションバースプリングを用いたドディオン式に変更。
ショートホイール化が原因で、この年は思うような成績を残せなかった。
1936年 4月13日 モナコGP
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
1936年 5月10日 トリポリGP
4位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
1936年 5月17日 チュニスGP (チュニジア)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
1936年 6月 7日 ペンヤリンGP (バルセロナ)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
5位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 6月16日 アイフェル・レース
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 6月21日 ハンガリーGP(ブダペスト)
2位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 7月26日 ドイツGP(ニュルブルクリンク)
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 8月15日 アチュルボ杯
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 8月26日 スイスGP (ベルン)
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
2位 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 9月13日 イタリアGP
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
1936年 フェルトベルク・レース
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)
1936年 ヒルクライム(フライブルク)
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)
1936年 マサリックGP ブルノ1周29km
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
2位 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)
3位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)
1936年12月 グローブナーGP (ケープタウン)
優勝 エルンスト・フォン・デリウス
エルンスト・フォン・デリウスはローゼマイヤーの親友。
1936年末 ベルント・ローゼマイヤーがヨーロッパチャンピオンとなる。
1937年 設計者がマックス・ザイラーからルドルフ・ウーレンハウトに変わり、原因が
突き止められたが、まったく新しいマシンを作ったほうがよいという結論に達し、
「125」が誕生。
エンジンは5.66リッターに拡大されM125型となり、646馬力/5800rpm。
ホイールベースは2460mmから2780mmに延長され、フロントサスはコイル
スプリングを用いた不等長ウィッシュボーン、リアサスはW25のドディオン式を
踏襲した。タイヤサイズは幅7.00インチ(175mm)-径22インチ。
ルドルフ・ウーレンハウトはグランプリドライバー並のスピードでマシンを走らせる
ことができるエンジニアで、自身の走りから技術的なフィードバックが出来る
類まれなるエンジニアだった。
1937年 5月 9日 トリポリGP
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
カラッチオラはアウトウニオンに移籍したファジォリとの私闘に巻き込まれ
リタイア。
1937年 5月26日 アヴス・レース
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25K-M125)
W25のシャーシーにW125の5.66リッターエンジンを載せ、「ストリームライン」と
呼ばれる空力ボディをまとったマシンで、平均速度260.17km/hで優勝。
この記録は21年間破られなかった。
1937年 6月13日 アイフェル・レース
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
1937年 6月19日 ルドルフ・カラッチオラがベビー・ホフマンと再婚する。
1937年 7月 5日 ヴァンダー・ビルド・カップ (ニューヨーク近郊ルーズベルト・レースウェイ)
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
4位 エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオンType C)
高額の賞金目当てに、メルセデス・ベンツもアウトウニオンも船で渡り参加した。
1937年 7月25日 ドイツGP (ニュルブルクリンク)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
3位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオン)がレース中の事故で死亡。
1937年 9月12日 イタリアGP (レグホーン)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
2位 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
アキッレ・バルツィ(33)がモルヒネを絶ち、復帰するも6位に終わる。
1937年10月 2日 ドニントンGP
優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
ベルント・ローゼマイヤー生涯最後の優勝となる。
1937年11月12日 ベルント・ローゼマイヤーの第一子(男子)が生まれる。
1937年末 ルドルフ・カラッチオラが2度目のヨーロッパチャンピオンとなる。
1938年 1月28日 ルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで速度記録に挑戦し、
432km/hを記録する。
同日、ベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオンで速度記録挑戦中に事故死。
1938年 フォーミュラーカーの規定が以下のとおり変更される。
・過給器付は3リッターまで、自然吸気は4.5リッターまで
ダイムラー・ベンツ社はW154、アウトウニオンはTypeDを開発する。
1938年 5月15日 トリポリGP
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
1938年 7月23日 ドイツGP
優勝 ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
1938年 8月18日 スイスGP
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
2位 ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
雨天でのレース。ディック・シーマンはカラッチオラから26秒差で雨での速さを
証明した。
1938年 9月11日 イタリアGP (モンツァ)
優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
3位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
ルドルフ・カラッチオラが3度目のヨーロッパチャンピオンとなる。
1938年10月22日 ドニントンGP
優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
2位 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
3位 ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
当初9月末に行われるはずだったが、戦争の危機が迫り、一時ドイツ勢は
撤退し、レースは延期となり、10月22日に開催された。
1939年 4月 2日 ポーGP (ポー市街地コース)
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
1939年 5月 7日 トリポリGP
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW165)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW165)
このレースのみ車両規定が1.5リッター変更されたため、8ヶ月という短期間で
W165(V12気筒250馬力、5速、ストリームライン、全輪独立懸架)を開発し、
優勝した。ヘルマン・ランクはトリポリGP3連覇。
1939年 5月21日 アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
2位 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
3位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
1939年 6月? ドイツ・スピード・ヒルクライム・チャンピオンシップ (ウィーン)
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
2位 ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
3位 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)
1939年 6月25日 ベルギーGP (スパフランコルシャン)
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
2位 ルドルフ・ハッセ (アウトウニオンTypeD)
このレースでディック・シーマンが事故死。
1939年 7月 9日 フランスGP (ランスサーキット)
優勝 ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
2位 ゲオルグ・マイエル (アウトウニオンTypeD)
この日メルセデス・ベンツは全滅。
1939年 7月23日 ドイツGP (ニュルブルクリンク)
優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
ヘンルマン・ランクが練習走行で9分43秒のラップレコードを記録。6年間破られ
なかった。カラッチオラは国際レース最後の優勝となった。
1939年 8月20日 スイスGP (ベルン)
優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
2位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
この日1939年ヨーロッパチャンピオンがヘルマン・ランクに決まる。
1939年 9月 3日 ユーゴスラビアGP (ベオグラード市街地コース)
優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
2位 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)
3位 ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
この日に第二次世界大戦が勃発した。戦争の混乱で決勝出場はわずか5台。
ヘルマン・ランクはブラウヒッチュの飛び石がゴーグルに当たり負傷リタイア。
1946年 5月 ルドルフ・カラッチオラがインディのレースに招待される。
しかし、練習走行中にクラッシュ、頭蓋骨底部骨折をする。
1947年 アキッレ・バルツィ(43)がアルファロメオで国際レースに復帰する。
1950年 ジュゼッペ・ファリーナ(アルファロメオ)が世界選手権初代チャンピオンとなる。
ファン・マヌエル・ファンジオ(アルファロメオ)が2位。
1950年末 メルセデス・ベンツレーシングチーム再始動。
1950年末 ジュゼッペ・ファリーナがアルファロメオ アルフェッタ159で
初代F1チャンピオンとなる。
1951年 ファン・マヌエル・ファンジオがメルセデス・ベンツに移籍。
1951年 2月18日 ブエノスアイレスGP
優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
2位 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
3位 ファン・マヌエル・ファンジオ (メルセデス・ベンツW154)
1951年 2月25日 エヴァ・ペロン杯
優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
2位 カール・クリンク (メルセデス・ベンツW154)
3位 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
ファンジオはリタイア。
戦前からのW154を使いまわしていたメルセデス・ベンツは新型車の開発を断念。
F1レースから一時撤退する。ファン・マヌエル・ファンジオはアルファロメオに戻る。
1951年末 ファン・マヌエル・ファンジオがアルファロメオ アルフェッタ159で
F1ワールドチャンピオンとなる。
1951年をもってアルファロメオはF1から撤退する。
1952年 F1の車両規則が変更になり、自然吸気2リッターで行う事になる。
1952年末 アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。
1953年末 アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールドチャンピオン
となる。
1952年 5月 3・4日 ミッレ・ミリア
優勝 ジョヴァンニ・ブラッコ (フェラーリ250S)
2位 カール・クリンク (メルセデス・ベンツ300SL)
3位 ルイジ・ファジォリ (ランチア・アウレリアB20)
4位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツ300SL)
メルセデス・ベンツは市販車「300」のエンジンを使い、スポーツカー「300SL」を
開発。カラッチオラは51歳、クリンクは40歳。
ルイジ・ファジォリ(54)がスポーツカーレースに復帰。
1952年 5月18日 ベルンGP
優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)
2位 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
3位 フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)
このレースでカラッチオラが立ち木に衝突して大怪我をし、引退を余儀なく
される。
1952年 5月31日 ルイジ・ファジォリがモナコGPで練習走行中に事故。意識不明になるも
一旦は回復したが、容体が急変し6月20日死去。享年54歳。
1952年 6月 ル・マン24時間
優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
2位 フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)
1952年 ドイツGP
優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
1952年 カレラ・パナメリカーナレース
優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
2位 カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)
1952年末 アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。
1953年末 アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールド
チャンピオンとなる。
1954年 新フォーミュラーの車両規則が自然吸気2.5リッターもしくは750ccの
スーパーチャージャー付に変更となる。
メルセデス・ベンツはこの新規定に合わせた新型マシン「W196R」を開発。
2496cc直噴直列8気筒2バルブDOHCでバルブスプリングがない
「デスモトロミック」機構を採用。エンジンは53度右に傾けて搭載され、
ドライブシャフトはドライバーの左側に通してあった。
パワーは268馬力/8700rpm。
トランスミッションはトランスアクスルでZF製の5速。
シャーシーは鋼管スペースフレーム。足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、
リアはトーションバースプリングのスイングアクスル。
ホイールベースは3種(2350、2210、2150mm)用意し、コースにより
使い分けた。ブレーキは4輪ドラム。車重はストリームラインで700kg。
1954年 7月 4日 第4戦フランスGP(ランス)
メルセデス・ベンツの新型GPマシンがデビュー
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
2位 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
1954年 7月17日 第5戦イギリスGP(シルバーストーン)
優勝 ホセ・フロイライン・ゴンザレス(フェラーリ625)
4位 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
7位 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
ストリームラインでは小回りが利かず、順位を落としてしまう。
1954年 8月 1日 第6戦 ドイtツGP(ニュルブルクリンク)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
4位 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196R)
前戦の教訓から、オープンホイールタイプのマシンを投入。
このレースでマセラッティに乗るファンジオの友人マリモンがコースアウトし、
死亡。
1954年 8月23日 第7戦スイスGP(ベルン)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
1954年 9月 5日 第8戦イタリアGP(モンツァ)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
1954年 9月19日 ベルリンGP(アフス) ・・・チャンピオンシップ外
優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
2位 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
3位 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
ファンジオにチャンピオンシップを獲らせるために我慢していたクリンクが優勝。
1954年10月24日 第9戦スペインGP(バルセロナ)
3位 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
1954年末 ファン・マヌエル・ファンジオが2度目のF1ワールドチャンピオンとなる。
1955年 メルセデス・ベンツはW196Rを290馬力にパワーアップさせる。
この年スポーツカー選手権のメイクスタイトルが創設され、スポーツカーレースに
合わせて、「300SLR(W196S)」を開発する。
エンジンは直列8気筒2バルブDOHC(デスモトロミック)2982cc。
パワーは310馬力/7400rpm。ミッションはZF製5速で最高速は290km/h。
ボディはマグネシウムで、車重は899kg。
シャーシーは二人乗りのためにW196Rの鋼管スペースフレームの幅を広げた
ものにした。ブレーキは4輪インボードドラム。ル・マン出場時にはエアブレーキが
採用された。
1955年 1月16日 F1第1戦アルゼンチンGP(ブエノスアイレス)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
ファンジオはただ一人、96周、3時間あまりを一人で走りきった。
1955年 5月 1日 ミッレ・ミリア
優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)
1931年のカラッチオラ以来、メルセデス・ベンツに2度目の優勝をもたらす。
1955年 5月29日 アイフェル・レース ・・・ タイトル外
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)
1955年 6月 5日 F1第4戦ベルギーGP (スパフランコルシャン)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
1955年 6月19日 F1第5戦オランダGP (ザントフールト)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
1955年 6月11日 ル・マン24時間レース
メルセデス・ベンツ300SLRに乗ったピエール・ルヴェーが宙を舞ってコース
アウトし、観衆に突っ込んだ。死者72名負傷者150名という自動車レース
史上最悪の事故となった。レースは続行されたが、メルセデス・ベンツは
走行中のクルマを引き上げ、途中棄権した。
1955年 7月16日 F1第6戦イギリスGP (エイントリー)
優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツW196R)
スターリング・モス、F1で初優勝。
1955年 8月 7日 スウェーデンGP
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)
1955年 9月11日 F1第7戦イタリアGP(モンツァ)
優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
1955年 9月18日 ツーリスト・トロフィー(アイルランド)
優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)
1955年10月16日 タルガ・フローリオ
優勝 スターリング・モス、ピーター・コリンズ組
(メルセデス・ベンツ300SLR)
2位 ファン・マヌエル・ファンジオ、カール・クリンク組
(メルセデス・ベンツ300SLR)
この1、2フィニッシュにより、スポーツカー選手権のメイクスタイトルを獲得する。
1995年末 ファン・マヌエル・ファンジオが2年連続3度目のF1ワールドチャンピオンになる。
メルセデス・ベンツがレース活動の休止を発表。
1959年 9月28日 ルドルフ・カラッチオラが亡くなる。享年58歳。