• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

フォレタのブログ一覧

2016年02月26日 イイね!

本の紹介・・・「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」


「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」  ㈱230クラブ刊 著者:サトウマコト  1,800円(税抜) 



紹介しておいてなんですが、内容は面白いのですが、文字数が多く、時代背景なども頭に入っていないとなかなか読破するのが大変な本です。結局買ってから10年近くも挫折しつづけ、最近ようやく読み終わりました。

皆さんは戦前にアメリカのフォードとGMが日本に工場を持っていたことをご存知でしたか?
ほとんど知られていませんが、クライスラーも直接進出はしていませんが、ノックダウン生産を行っていました。まだ、日産自動車がダットサンの量産を始める以前の話です。

この本には1923(大正12)年9月1日関東大震災により交通インフラが壊滅的な打撃を受けた東京・横浜で物資の輸送にクルマが必要になり、緊急輸入する話から始まります。
2000台ものビュイックを輸入して売りさばいたのは、なんとあの輸入車販売店の創業者、梁瀬長太郎氏。
東京市は800台のフォードT型シャーシを輸入し、バスやトラックに仕立てたりしました。俗に言う「円太郎バス」が生まれたのもこの時です。
当時フォードは中国に東アジアの生産拠点を作る計画でしたが、これらの受注から日本に需要があると見込み、日本進出を決めたのです。
フォードが生産の地としたのが横浜です。工場の操業は1925(大正14)年です。
そしてフォードの進出の様子をうかがっていたGMも1927(昭和2)年に大阪に工場を設け、操業を開始します。日本GMの営業にはトヨタの営業の神様と言われた神谷正太郎氏が入社します。
両社とも部品を輸入し日本で組立だけ行うノックダウン生産でしたが、各社多い時で年産1万台以上のクルマを市場に送りだしました。
今度はこの状況を見ていた日本の輸入車販売業者たちが、共同でクライスラーの生産組立工場を横浜に作り、ダッジ車のノックダウン生産をはじめました。

品質もよく、価格も安いアメリカ車が、日本での生産によってさらに価格が下がり、なんとかクルマを国産化しようと努力し「オートモ号」を製作したりしていた白揚社の豊川順彌も、あきらめざるをえない状況となってしまいました。

だんだんと戦時色が濃くなってくると、陸軍はトラックを国産にしようと、生産を始めたトヨタや日産のトラックを使い出しましたが、アメリカ車と比べると故障も多かったため、故障したために命を落としたりした者も現れたため、再度アメリカ車を発注する羽目になり、貿易収支が悪化する事態にもなったそうです。

しかし軍部の圧力はますます強くなり、1936(昭和11)年に陸軍がいわゆる国産車保護法を制定し、
日本人が経営する「許可会社」でないと生産できないようにしてしまいました。

その後部品を輸入品ではなく、国産品にして生産を行うことや、国産メーカーとの合併なども画策されましたが、どれも軍部からの横槍は入り、3社とも1939(昭和14)年12月末をもって生産中止となりました。

もし3社が残っていたら、日本のモータリゼーションはどうなっていたのだろうと想像すると、面白いですよね。個人的には残っていて欲しかったところもあるし、残っていなかったからこそ日本のメーカーがここまで成長できたと思えるところもあるし、微妙ですね。

最後に、この本は日本の横浜フォード工場、大阪GM工場について唯一書かれたの本ではないかと思うので、クルマの歴史が好きな方にはぜひおすすめします。
では、また。
Posted at 2016/02/26 23:57:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | | クルマ
2013年11月09日 イイね!

本の紹介 ・・・ 駆け抜けてきた 我が人生と14台のクルマたち




駆け抜けてきた 我が人生と14台のクルマたち 徳大寺有恒 著  東京書籍刊 1,575円(税込)



最近家の用事で忙しく、試乗もできていないフォレタです。

さて今回ご紹介させていただく本は、私の大好きな徳大寺有恒さんが所有したクルマたちから感じたことや学んだことについて書かれているものです。
書かれていること自体がとても勉強になりますが、それよりもこの本で驚くのは、クルマのスペックやメーカーの歴史が細かく書かれているのですが、徳大寺さん自身がそらで言えるほどきちんと覚えているという一文です。御年74歳にして!
それができるのは自動車評論家「徳大寺有恒」である前に、クルマ愛好家「杉江博愛」(本名)だからだそうです。
本には少年時代のことも書かれていますが、ほんとにクルマが好きなんだなということが伝わってきます。

自分も一クルマ好きとして、徳大寺さんみたいにそらで言えるくらい知識を持ちたい。そして、クラシックカーイベントに行ってもわからないクルマがないくらいになってみたい...

クルマが大好きな自分に、そんな夢を与えてくれる本でした♪



P.S.
先日、CAR GRAPHIC初代編集長の小林彰太郎さんが亡くなられましたね。
親友であった三本和彦さんは80歳を越えていますし、徳大寺さんもすでに74歳。小林さんが亡くなられた今、お二方にはこれからも1日でも長くお元気でお過ごしくださり、クルマの歴史や楽しさについて語り継いでいって欲しいと願っています。
(中学生のころに三本さんの新車情報を見て育ち、免許を取った18歳のときから徳大時さんの
「間違いだらけのクルマ選び」を読み続けている、42歳のクルマ好きのオヤジより)
Posted at 2013/11/09 00:19:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | | クルマ
2013年03月23日 イイね!

ベントレーの歴史 (W.O.ベントレーの手がけた時代) 

ごぶさたしてます。
試乗記を期待している方、申し訳ありません。
3月は決算期なので、商売の邪魔をしないよう、お店にはあまり行かないようにしています。

私もいろいろなクルマに試乗するようになり、1000万円近いクルマにもたまに乗る機会が出て
きましたが、ほんとうに高級なクルマのつくりとはどんなものなのか、知りたくなってきたのです。
また、現代の製造方法がどのような段階を経てできたのかも知りたくて、歴史を紐解いてみた
次第です。

さて、今回はメルセデス・ベンツに続き、ベントレーの歴史です。
しかも、創業者ウォルター・オーウェン・ベントレー(W.O.ベントレー)が直接手がけたクルマたち。
1921年から1931年のわずか10年ほどのことです。
たった10年の間ですが、ルマン24時間5回優勝(1924年、1927~1930年)という
輝かしい足跡を残しています。
学びたいことの趣旨からずれている気もしますが、この当時のベントレーは値段は高かった
けれども、決して高級車ではなくスポーツカーだったようです。
現代のドライバーズカーでありながら高級車でもあるベントレーの姿は、ロールス・ロイス社に買収
された後の1930年代のことです。


この本から学ばせて頂きました。



「FYING B No.001} ネコパブリッシング刊  ¥2625.-(税込)

なんとベントレー単独の雑誌です。なので値段は高いですが、写真が豊富できれいなので、見ていて飽きません。
木と革の内装のクルマが好きな私のような人間にはうってつけです。
おまけに歴史も教えてくれますし。


歴史を紐解くのにからみ、2010年7月にお台場で行われた「コンクール・デレガンス・東京」に行ったときの写真の中に、たまたま撮っていたベントレーがありましたので紹介させていただきます。 このイベントは今は行われていませんが、ぜひ復活してほしいものです。

このベントレーは1924年製ベントレー”3Litre SPEED MODEL”です。
当時はこのクルマの重要性をまったく認識していませんでした。
この個体は「白州次郎」が欧州に留学していたときに購入し、レースに出たり、欧州旅行に使用したそのものです。(詳細はFLYING B No.001に掲載されています)
現在は埼玉県加須市にあるワクイミュージアムが所蔵しています。
本を読んで「これ見に行きたい!」って思ったら、すでに見ていたなんて...
 


なんと麻を巻いたステアリングです。


続いて、1921年製ベントレー”3Litre by Gairn”
こちらは ベントレー社が創業してからはじめて製造した”3Litre”モデルの中で
生産時の状態をそのまま保持している、世界最古のものだそうです。
こちらもワクイミュージアム所蔵のもの。
”by Gairn”とあるのは、当時のクルマはシャーシー状態で売られて、ボディは馬車を製造していた「コーチビルダー」が製作することが多く、このクルマは「Gairn」という
スコットランド・エディンバラのコーチビルダーが手がけたもの。






また私の備忘録として、歴史を記します。
あくまでも備忘録なので、間違っていてもお許しください。
写真はあえて載せていません。

1888年9月16日 ウォルター・オーウェン・ベントレー ロンドンに生まれる

1905年(17歳)  名門校クリフトン・カレッジを卒業
          グレード・ノーザン鉄道に入社
          (イングランド中北部サウス・ヨークシャー州ドンカスター)
          人間関係に耐え切れず退社

1910年(22歳)  ナショナル・モーター・キャブ・カンパニーに入社

1912年(24歳)  兄弟の一人、ホーレス・M・ベントレーの影響で
          自動車やモーターサイクルのレースに興味を抱くようになり
          フランス製のガソリン自動車"DFP"の輸入権を持っていた
          ロンドン・ウェストエンドにあった"ラコック&フェルニー"
          という小さな会社を兄のホーレスとともに買収する。
          そこでDFPに自らチューニングを施したレーシングカーの
          開発を指揮したほか、自らワークスドライバーもかって出た
          W.OによってチューニングされたDFPは、ついには2リッター
          以下クラスでDFP本社のワークスマシンより速くなってしまう
          (ピストンに初めてアルミを用いた)

1914年(26歳)  第一次世界大戦の勃発によりイギリス海軍航空隊に技術将校と
          して従軍することになり、アルミ合金製ピストンを航空機用
          エンジンにも応用、彼が設計した空冷星型9気筒エンジンは
          約4000ユニット生産され、当時採用されていた軍用機用
          エンジンの中でも最高傑作の一つとの評価を受けた

1919年(31歳) 8月ベントレー・モーターズ社創立

          10月 ロンドンショーにて"3Litre"を発表

             水冷4気筒4バルブSOHC 2996cc、65HP
             ボア×ストローク:80×149、SU式ツインキャブレター
             点火システムは2系統マグネトー式と航空機仕込み
             最高速は80mph(約128km/h)以上だった。
             足回りは半楕円リーフのライブアクスル
             シャーシはラダーフレーム
             ローリングシャシー状態で1050ポンド

1921年(33歳) "3Litre"を発売開始

1923年(35歳) "3Litreスピードモデル"登場
          圧縮比アップと気化器の大径化で80HPにパワーアップ

1926年(38歳) "6 1/2Litre"発表

          水冷直列6気筒4バルブSOHC 6597cc 140HP
          ボア×ストローク:100×140

          "6 1/2Litre"モデル登場直後に"6 1/2Litre speed six"登場
          大径化したツインSUキャブと5.3:1まで高められた圧縮比によって
          180HPを発生した


1927年(39歳) "4 1/2Litre"登場
          水冷直列4気筒4バルブSOHC 4398cc 110HP
          6気筒モデルから2気筒分切り落とした仕様で、
          ボアストロークは6気筒と同じ


1929年(41歳) "4 1/2Litreブロワー"登場
          ヴィリヤーズ社製ルーツ式スーパーチャージャーを装着し、
          175~180HPを発生した。
          ベントレーボーイズの一人、”ティム”・バーキンの要請により
          レギュレーションを満たすために55台だけ生産された
          世界恐慌とあわせて、このモデルの生産が経営を圧迫した

          "3Litre"モデル販売終了
          スピードモデルと合わせて1622台生産された


1930年(42歳) "8Litre"登場
          "6 1/2Litre" のボアを110mmに拡大し、7983ccとし、220HPとなる
          ロールスロイス「ファントムⅡ」に歯が立たず、販売は不調

          "4Litre”登場
          経営改善のため、エンジンをSOHCからサイドバルブにするなど大幅に仕様を
          ダウンしたモデル
          ベントレーとしての魅力を失ってしまって、こちらも販売は不調 

1931年(43歳) ロールス・ロイス社に買収される          
Posted at 2013/03/23 10:38:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | | クルマ
2013年03月09日 イイね!

メルセデス・ベンツ レースの歴史

ごぶさたしてます。
今回は本の紹介です。
自分なりにメルセデス・ベンツのレースの歴史を知りたかったので、本を読んでみました。

「MERCEDES-BENZ RACING HISTORY」   三樹書房刊   1,750円(税込)
アルフレート・ノイバウア著 橋本茂春翻訳


表紙は1952年型300SLプロトタイプ(W194) (カレラ・パナメリカーナ・メヒコ出場車)

この本は1926年から1955年まで、メルセデス・ベンツのレーシングチームの監督を務めた
アルフレート・ノイバウアさんのドイツ語著書「男と女と車」の英訳本を翻訳したものです。

この本を読むと、アルフレート・ノイバウアという人がほんとにルドルフ・カラッチオラのことが好きだったんだなということが、よくわかります。また、カラッチオラが偉大なドライバーであったことも。

「ファンジオやスターリング・モスでさえ、カラッチオラやシュトックやヘルマン・ランクやローゼマイヤーほど光ってはいなかった」というノイバウアさんの言葉から、命がけで走っていた戦前のドライバーの
すごさが伝わってきます。

単なるレースの結果だけでなく、各レーシングドライバーの性格や情事まで書かれているので、まるで当時にタイムスリップしたかのような気になります。


もう一冊は
「メルセデス・ベンツ 歴史の残るレーシング活動の奇跡 1894-1955」
三樹書房刊  2,520円(税込)   宮野 滋 著


表紙はF1マシンの1955年型W196R (ドライバーはファン・マヌエル・ファンジオ)

レースの詳しい結果は、こちらの本のほうが詳しく載っています。写真もたくさんあって、いいですね。
    




ここから先は、2冊の本+自分で調べた情報を私の備忘録として残したものです。
もし記載の誤りがあっても、ご容赦ください。
写真はあえて載せていません。



1891年 3月29日  メルセデス・ベンツ監督、アルフレート・ノイバウア(ドイツ)が生まれる。

1892年11月16日  GPドライバー、タツィオ・ヌボラーリ(イタリア)が生まれる。

1898年 6月 9日  GPドライバー、ルイジ・ファジォリ(イタリア)が生まれる。

1899年 8月 3日  GPドライバー、ルイ・シロン(フランス)が生まれる。

1901年 1月30日  GPドライバー、ルドルフ・カラッチオラ(ドイツ)が生まれる。

1904年       GPドライバー、アキッレ・バルツィ(イタリア)が生まれる。

1906年 6月15日  設計者ルドルフ・ウーレンハウト(ドイツ)が生まれる。

1906年10月30日 GPドライバー、ジュゼッペ・ファリーナ(イタリア)が生まれる。

1909年10月14日 GPドライバー、ベルント・ローゼマイヤー(ドイツ)が生まれる。

1911年 6月24日 GPドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)が生まれる。

1913年 7月13日 GPドライバー、アルベルト・アスカリ(イタリア)が生まれる。

1929年 9月17日 GPドライバー、スターリング・モス(イギリス)が生まれる。



1914年-1918年 第一次世界大戦 ノイバウアも前線に送られる。
            軍用車の整備をする中で、フェルディナント・ポルシェ博士と知り合う。

1918年       アルフレート・ノイバウア(27歳)は第一次大戦後、フェルディナント・ポルシェ博士
            より、アウストロ・ダイムラー社のロードテスト部の仕事をあてがわれる。

1922年       FIAの前身であるAIACR(Association Internationaledes Automobile Club
            Reconnus)がグランプリ・フォーミュラーの規定を以下に定めた。
              排気量2リッター
              車重650kg以下

1922年 4月2日  タルガ・フローリオ
              アルフレート・ノイバウア(31歳)がレースデビュー
              マシンはポルシェが設計したサーシャ1100cc4気筒DOHC 50馬力


1922年末       ダイムラー社よりパウロ・ダイムラーが去り、フェルディナント・ポルシェが
            アウストロ・ダイムラー社より移籍する。

1923年 6月     ルドルフ・カラッチオラがダイムラーのレースチームに加入
            初めてノイバウアと知り合う。

1923年 9月     スピード・ヒルクライムでルドルフ・カラッチオラが優勝

1924年 4月27日  タルガ・フローリオ
              優勝 クリスチャン・ヴェルナー
              10位 クリスチアン・ラウテンシュラーガー(クラス2位)
              15位 アルフレート・ノイバウア(クラス3位)
              マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
              120馬力/4500rpm

1924年 9月14日  ウィーン近郊のゼメリンク・ヒルクライム
              優勝 クリスチャン・ヴェルナー 6分55秒6
              5位 アルフレート・ノイバウア  7分34秒4
              マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
              120馬力/4500rpm   

1924年10月19日 イタリアGP(モンツァ)にて2リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャー
            ジャー160馬力仕様のマシンがデビューしたが、ドライバーのエリオット・
            ズボロウスキー伯爵が立ち木に激突して死亡。出場していた他の2台も棄権。

1926年       ・AIACRにより規定が以下に変更される。
              排気量1.5リッター以下
              最低重量600kg

            ・アルフレート・ノイバウア(35歳)がメルセデス・ベンツ レーシングチームの
            マネージャーとなる。

1926年 7月 1日  ダイムラー社とベンツ社が合併し、ダイムラー・ベンツ社となる。

1926年 7月11日  第1回ドイツGP (ベルリン・アフスサーキット)
            ルドルフ・カラッチオラが優勝、賞金17,000マルク(昭和元年の邦貨で7,160円)を
            手にする。カラッチオラにとっては初めての大きな国際レースでの優勝。
            マシンは1924年にポルシェ博士が設計した2リッター直列8気筒4バルブDOHC
            スーパーチャージャー160馬力/6000rpm仕様のマシン

1926年 9月    ベルリンの高級商店街にあるダイムラー・ベンツのショー・ルームのクルフェルシュ
            テンダムに賞金の17,000マルクを投資、ベルリンの金持ちレストランの娘シャル
            ロット(愛称シャルリー)と結婚する。

1926年 9月12日 ゾリチュードで行われたレースで、初めてドライバーに信号を送ることを試した。
            (現在のピットサインの原型)
            メルセデス・ベンツは1~3位を独占する。

1927年 6月    ニュルブリクリンクが開設される。一周27.6km、172のコーナー。

1927年 6月19日 ニュルブルクリンクで初レースが開催される。
            優勝 ルドルフ・カラッチオラ
            2位 クリスチャン・ヴェルナー
            3位 アドルフ・ローゼンバーガー

1928年 7月15日 第3回ドイツGP (ニュルブルクリンク)
            マシンは「ホワイト・エレファント」180馬力、1~3位を独占する。
            優勝 ルドルフ・カラッチオラ、クリスチャン・ヴェルナー
            2位 オットー・メルツ
            3位 バルプ
            4位 ルイ・シロン (ブガッティ)

1929年 8月     RACツーリスト・トロフィー
            優勝 ルドルフ・カラチオラ

1929年10月29日 世界恐慌

1930年       経済情勢悪化により、メルセデス・ベンツ レーシングチームはこの年不参加と
            なる。この年、アルファロメオのタツィオ・ヌボラーリ、アキッレ・バルツィが台頭し、
            バルツィはイタリアチャンピオンとなる。

1930年       ボルディノ杯レース(アレクサンドリア)の優勝争いで、バルツィがヌボラーリを
            はじき飛ばし、優勝する。

1930年 4月15日  ミッレ・ミリアでタツィオ・ヌボラーリが優勝
            夜間バルツィの後ろをライトを消して走行し、出し抜いた。
            このとき優勝者の平均時速が初めて100km/hを超えた。
            翌年バルツィはアルファロメオから離れる。             

1931年       メルセデス・ベンツはカラッチオラと以下の契約を行った。
            契約条件は輸送・修理・タイヤ・燃料の諸経費を会社が負担するかわりに
            新車のSSKLを安価で購入し、賞金は会社と折半にするというもの。

1931年 4月12日 ミッレ・ミリアでルドルフ・カラッチオラが優勝
            ドイツ人で唯一の勝利となる。

1931年       スペインGPでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       チェコスロバキアでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       ケッセルベルクでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       アイフェルでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年 7月19日 ドイツGP(ニュルブルクリンク)
             優勝 ルドルフ・カラッチオラ
             2位 ルイ・シロン (ブガッティ)

1931年 8月 2日  アブスサーキットでのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝      

1931年末      経済事情によりメルセデス・ベンツがレース活動を行わないこととなり、
            ルドルフ・カラッチオラは解雇される。

1932年       ルドルフ・カラッチオラがアルファロメオに移籍
            カラッチオラのみ仲間はずれにされ、ボディカラーが白となる。

1932年 4月    ミッレ・ミリア
            ルドルフ・カラッチオラはムッソリーニ杯を獲得するもリタイア。

1932年 4月    モナコGP
             優勝 タツィオ・ヌボラーリ
             2位 ルドルフ・カラッチオラ
            カラッチオラがヌボラーリに勝利を譲り、赤いボディカラーを許される。

1932年 5月    アブスサーキットでのレース
            カラッチオラ、移籍後初の赤いアルファロメオに乗っての母国レース
             優勝 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツSSKLストリーム・ライン)
             2位  ルドルフ・カラッチオラ

1932年       ニュルブルクリンクのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       ドイツGP ルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       モンツァGP ルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       ヌボラーリがイタリアンチャンピオンとなるも
            バルツィとの私闘が激化。

1932年10月12日 AIACRが新しいフォーミュラーカーの規定を採択する。
              ・車両重量750kg以下
              ・幅85cm以下
              ・排気量制限なし




1933年       ルドルフ・カラッチオラはアルファロメオから、ルイ・シロンはブガッティから解雇
            される。
            ルドルフ・カラッチオラとルイ・シロンは「スクーデリアCC」というチームを結成し、
            2台のアルファロメオを購入し、レースを行うことにした。

1933年 4月     ジョバンニ・カネストリーニというジャーナリストによってヌボラーリとバルツィの
            会合が秘密裏にセッティングされ、協定が結ばれて、その後のレースで私闘は
            なくなった。

1933年 4月21日  ルドルフ・カラッチオラがモナコGPの練習走行中にマシンのブレーキが利かなく
            なり、鉄塔に激突。大腿骨の複雑骨折で入院する。
            すぐにボローニャに移され手術するも、右足が5cm短くなってしまった。

1933年 5月 7日  イタリアの植民地、リビアのトリポリに世界で一番高速で、13.2kmのサーキット
            が建設され、レースが開催された。
              優勝 アキッレ・バルツィ (ブガッティ)
              2位  タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオ)
              3位  ヘンリー・バーキン卿 (マセラッティ)
            このレースでバルツィが八百長を画策し発覚するも、注意のみでお咎めはなし。

1933年 5月      ドイツ・ベルリンにあったアブス・サーキットでのレース
            メルセデス・ベンツはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが個人所有のSSKLで
            6位に食い込むのがやっとだった。
            ここから来年に向けて、新しいフォーミュラーカー規定にあわせたマシンの開発に
            乗り出すことをメルセデス・ベンツが決意し、アウトウニオンも開発に着手する。

1933年 9月19日 モンツァGP第2予選、コース上のオイルにのってアルファロメオのカンパーリと
            ボルツァキーニがコースオフし、マシンの下敷きになり死亡する。
            観衆の要望に押され決勝レースが行われたが、チャイコフスキ伯爵がコース
            アウトして木に激突し、頭蓋骨骨折により死亡する。




1934年       アウトウニオンはポルシェ博士設計のミッドシップマシン「Pワーゲン」(通称シル
            バーフィッシュ)を製作。
            ドライバーはハンス・シュトック、ライニンゲン公、アウギュスト・モンバーガー、
            ビルヘルム・セバスチャン
            一方、メルセデス・ベンツはFRの「W25」を製作。設計はハンス・ニベル博士。
            W25はM25A型3.36リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャージャーで
            ボア78mm×ストローク88mm、354馬力/5800rpm。トランスアクスルを採用し、
            足回りは全輪独立懸架。
            ドライバーはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ、ルイジ・ファジォリ、それから
            ルドルフ・カラッチオラについては大腿骨骨折の後遺症がないか、練習走行後の
           状態を見て本契約を結ぶこととなった。

1934年 2月 2日  カラッチオラの妻、シャルロット・カラッチオラがスキーで雪崩に巻き込まれ死亡。
            カラッチオラはアローサの山荘に閉じこもり、抑うつ状態となる。
            ベビー・ホフマン夫人が介護を行った。

1934年 4月 2日  カラッチオラの治療の一環として、同僚のルイ・シロンがモナコGPの直前に走行
            できるよう手はずを整え、カラッチオラは12ヶ月ぶりにマシンを走らせた。

1934年 5月24日 アブスサーキットでカラッチオラのテストが行われた。
            マシンはW25。

1934年 6月 3日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
               優勝マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)

            カラッチオラは不参加。
            W25のデビューレースで規定の750kgをオーバーしていたため、ドイツのナショナル
            カラーであった白い塗装をはがし、車検をパスした。「シルバー・アロー」の誕生。

1934年 7月 1日  フランスGP (モンレリー)
              優勝 ルイ・シロン (アルファロメオTypoB/P3)
              2位  アキッレ・バルツィ (アルファロメオTypoB/P3)
              3位  ギュイ・モル (アルファロメオTypoB/P3)
            完走はわずか4台、うち3台がアルファ、1台はブガッティだった。

1934年 7月15日  ドイツGPで公開練習中にブラウヒッチュが衝突、頭蓋骨と肋骨3本を骨折。
               優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオン)

1934年 8月 5日  スピード・ヒルクライム (クラウゼン・パス)でルドルフ・カラッチオラ優勝。
            カラッチオラにとって1933年モナコGPの事故後初の復帰レース。

1934年 8月15日  アチュルボ杯 (ペスカラ)でカラッチオラが横転、リタイア。
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)

1934年        ヒルクライム (フライブルク)
              優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)

1934年 8月25日  スイスGP (ベルムガルテン)
              優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)

1934年 9月 9日  イタリアGP (モンツァ) 116周
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
            カラッチオラが暑さにやられてしまったため。ファジォりがクルマを乗り継ぎ優勝。

1934年 9月23日  バルセロナGP
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
            ファジォリがチームの指示を無視し、指示通りマシンをいたわるためにペースを
            落としたカラッチオラを抜いた。

1934年        シーズン後半にW25は排気量3.91リッターに拡大される。

1934年11月     W25を開発したハンス・ニベル博士が脳卒中により亡くなる。
            後任はドライバー経験もある、マックス・ザイラー 。




1935年        W25の排気量が4.31リッターに拡大される。455馬力/5800rpm。

1935年 4月25日  モナコGP
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)

1935年 5月 5日 チュニスGP
              優勝 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType A)

1935年 5月12日  トリポリGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)

1935年 5月26日  アブス・レース
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              3位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)
           
1935年 6月16日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType B)
              5位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25)
            ヘルマン・ランクのデビューレース

1935年 6月23日  フランスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)

1935年 7月28日  ドイツGP
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオTypo B/P3)
              2位  ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンType B)
            アウトウニオンのドライバーたちは、女性をめぐってもめ、シュトック、バルツィ、
            ピーターはスタートが切られても3台並んで止まったままだった。他のマシンが
            行ってかなり経ってからスタートし、シュトックは追い上げるも、たの2台は私闘
            を演じ、8・9位に終わった。

1935年 8月15日  スイスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
            ファジオリがチームの指示を無視しても抜かれないよう、ノイバウアはタイム差を
            カラッチオラに教えていた。憤怒したファジォリはメルセデス・ベンツのチームから
            離脱する。            

1935年 9月29日  マサリック杯レース(チェコ・ブルノ)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType B)
             これがベルント・ローゼマイヤーの初優勝。
            
1935年末      この年初めて制定されたヨーロッパ選手権でルドルフ・カラッチオラが
            チャンピオンになる。




1936年        W25を改良し、「W25K」となる。
             排気量を4.74リッターに拡大。473馬力/5800rpm。
             ホイールベースをショート化(2460mm)し、リアサスペンションをスイングアクスル
             からトーションバースプリングを用いたドディオン式に変更。
             ショートホイール化が原因で、この年は思うような成績を残せなかった。

1936年 4月13日  モナコGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 5月10日  トリポリGP
              4位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 5月17日  チュニスGP (チュニジア)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 6月 7日  ペンヤリンGP (バルセロナ)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
              5位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 6月16日  アイフェル・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 6月21日  ハンガリーGP(ブダペスト)
              2位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 7月26日  ドイツGP(ニュルブルクリンク) 
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 8月15日  アチュルボ杯
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 8月26日  スイスGP (ベルン)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
              2位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 9月13日  イタリアGP
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年        フェルトベルク・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年        ヒルクライム(フライブルク)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年       マサリックGP  ブルノ1周29km
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)
              3位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年12月    グローブナーGP (ケープタウン)
              優勝 エルンスト・フォン・デリウス
            エルンスト・フォン・デリウスはローゼマイヤーの親友。       

1936年末      ベルント・ローゼマイヤーがヨーロッパチャンピオンとなる。




1937年       設計者がマックス・ザイラーからルドルフ・ウーレンハウトに変わり、原因が
            突き止められたが、まったく新しいマシンを作ったほうがよいという結論に達し、
            「125」が誕生。
            エンジンは5.66リッターに拡大されM125型となり、646馬力/5800rpm。
            ホイールベースは2460mmから2780mmに延長され、フロントサスはコイル
            スプリングを用いた不等長ウィッシュボーン、リアサスはW25のドディオン式を
            踏襲した。タイヤサイズは幅7.00インチ(175mm)-径22インチ。
            ルドルフ・ウーレンハウトはグランプリドライバー並のスピードでマシンを走らせる
            ことができるエンジニアで、自身の走りから技術的なフィードバックが出来る
            類まれなるエンジニアだった。

1937年 5月 9日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
            カラッチオラはアウトウニオンに移籍したファジォリとの私闘に巻き込まれ
            リタイア。

1937年 5月26日  アヴス・レース
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25K-M125)
            W25のシャーシーにW125の5.66リッターエンジンを載せ、「ストリームライン」と
            呼ばれる空力ボディをまとったマシンで、平均速度260.17km/hで優勝。
            この記録は21年間破られなかった。

1937年 6月13日  アイフェル・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)

1937年 6月19日  ルドルフ・カラッチオラがベビー・ホフマンと再婚する。

1937年 7月 5日  ヴァンダー・ビルド・カップ (ニューヨーク近郊ルーズベルト・レースウェイ)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
              4位  エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオンType C)
            高額の賞金目当てに、メルセデス・ベンツもアウトウニオンも船で渡り参加した。

1937年 7月25日 ドイツGP (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
              3位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
           エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオン)がレース中の事故で死亡。

1937年 9月12日  イタリアGP (レグホーン)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
            アキッレ・バルツィ(33)がモルヒネを絶ち、復帰するも6位に終わる。

1937年10月 2日  ドニントンGP
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
            ベルント・ローゼマイヤー生涯最後の優勝となる。

1937年11月12日 ベルント・ローゼマイヤーの第一子(男子)が生まれる。

1937年末      ルドルフ・カラッチオラが2度目のヨーロッパチャンピオンとなる。



1938年 1月28日  ルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで速度記録に挑戦し、
            432km/hを記録する。
            同日、ベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオンで速度記録挑戦中に事故死。

1938年       フォーミュラーカーの規定が以下のとおり変更される。
              ・過給器付は3リッターまで、自然吸気は4.5リッターまで
            ダイムラー・ベンツ社はW154、アウトウニオンはTypeDを開発する。

1938年 5月15日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)

1938年 7月23日  ドイツGP
              優勝 ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)

1938年 8月18日  スイスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
            雨天でのレース。ディック・シーマンはカラッチオラから26秒差で雨での速さを
            証明した。

1938年 9月11日  イタリアGP (モンツァ)
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
              3位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
            ルドルフ・カラッチオラが3度目のヨーロッパチャンピオンとなる。

1938年10月22日  ドニントンGP
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
            当初9月末に行われるはずだったが、戦争の危機が迫り、一時ドイツ勢は
            撤退し、レースは延期となり、10月22日に開催された。



1939年 4月 2日  ポーGP (ポー市街地コース)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)

1939年 5月 7日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW165)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW165)
            このレースのみ車両規定が1.5リッター変更されたため、8ヶ月という短期間で
            W165(V12気筒250馬力、5速、ストリームライン、全輪独立懸架)を開発し、
            優勝した。ヘルマン・ランクはトリポリGP3連覇。

1939年 5月21日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
              3位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)

1939年 6月?    ドイツ・スピード・ヒルクライム・チャンピオンシップ (ウィーン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
              3位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)

1939年 6月25日  ベルギーGP (スパフランコルシャン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ルドルフ・ハッセ (アウトウニオンTypeD)
            このレースでディック・シーマンが事故死。

1939年 7月 9日  フランスGP (ランスサーキット)
              優勝 ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
              2位  ゲオルグ・マイエル (アウトウニオンTypeD)
            この日メルセデス・ベンツは全滅。

1939年 7月23日  ドイツGP (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)     
            ヘンルマン・ランクが練習走行で9分43秒のラップレコードを記録。6年間破られ
            なかった。カラッチオラは国際レース最後の優勝となった。

1939年 8月20日  スイスGP (ベルン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
            この日1939年ヨーロッパチャンピオンがヘルマン・ランクに決まる。

1939年 9月 3日  ユーゴスラビアGP (ベオグラード市街地コース)
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
              2位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
            この日に第二次世界大戦が勃発した。戦争の混乱で決勝出場はわずか5台。
            ヘルマン・ランクはブラウヒッチュの飛び石がゴーグルに当たり負傷リタイア。


1946年 5月     ルドルフ・カラッチオラがインディのレースに招待される。
            しかし、練習走行中にクラッシュ、頭蓋骨底部骨折をする。

1947年       アキッレ・バルツィ(43)がアルファロメオで国際レースに復帰する。

1950年       ジュゼッペ・ファリーナ(アルファロメオ)が世界選手権初代チャンピオンとなる。
            ファン・マヌエル・ファンジオ(アルファロメオ)が2位。

1950年末      メルセデス・ベンツレーシングチーム再始動。

1950年末      ジュゼッペ・ファリーナがアルファロメオ アルフェッタ159で
            初代F1チャンピオンとなる。



1951年       ファン・マヌエル・ファンジオがメルセデス・ベンツに移籍。

1951年 2月18日  ブエノスアイレスGP
              優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ファン・マヌエル・ファンジオ (メルセデス・ベンツW154)

1951年 2月25日  エヴァ・ペロン杯
              優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
              2位  カール・クリンク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
            ファンジオはリタイア。

戦前からのW154を使いまわしていたメルセデス・ベンツは新型車の開発を断念。
F1レースから一時撤退する。ファン・マヌエル・ファンジオはアルファロメオに戻る。

1951年末      ファン・マヌエル・ファンジオがアルファロメオ アルフェッタ159で
            F1ワールドチャンピオンとなる。
            1951年をもってアルファロメオはF1から撤退する。



1952年       F1の車両規則が変更になり、自然吸気2リッターで行う事になる。

1952年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。



1953年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールドチャンピオン
            となる。



1952年 5月 3・4日 ミッレ・ミリア
              優勝 ジョヴァンニ・ブラッコ (フェラーリ250S)
              2位  カール・クリンク (メルセデス・ベンツ300SL)
              3位  ルイジ・ファジォリ (ランチア・アウレリアB20)
              4位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツ300SL)
            メルセデス・ベンツは市販車「300」のエンジンを使い、スポーツカー「300SL」を
            開発。カラッチオラは51歳、クリンクは40歳。
            ルイジ・ファジォリ(54)がスポーツカーレースに復帰。

1952年 5月18日  ベルンGP
              優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              3位  フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)
             このレースでカラッチオラが立ち木に衝突して大怪我をし、引退を余儀なく
             される。
                  
1952年 5月31日  ルイジ・ファジォリがモナコGPで練習走行中に事故。意識不明になるも
            一旦は回復したが、容体が急変し6月20日死去。享年54歳。

1952年 6月     ル・マン24時間
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年        ドイツGP
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年        カレラ・パナメリカーナレース
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。



1953年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールド
            チャンピオンとなる。



1954年        新フォーミュラーの車両規則が自然吸気2.5リッターもしくは750ccの
            スーパーチャージャー付に変更となる。
            メルセデス・ベンツはこの新規定に合わせた新型マシン「W196R」を開発。
            2496cc直噴直列8気筒2バルブDOHCでバルブスプリングがない
            「デスモトロミック」機構を採用。エンジンは53度右に傾けて搭載され、
            ドライブシャフトはドライバーの左側に通してあった。
            パワーは268馬力/8700rpm。
            トランスミッションはトランスアクスルでZF製の5速。
            シャーシーは鋼管スペースフレーム。足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、
            リアはトーションバースプリングのスイングアクスル。
            ホイールベースは3種(2350、2210、2150mm)用意し、コースにより
            使い分けた。ブレーキは4輪ドラム。車重はストリームラインで700kg。

1954年 7月 4日  第4戦フランスGP(ランス)
            メルセデス・ベンツの新型GPマシンがデビュー
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              2位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1954年 7月17日  第5戦イギリスGP(シルバーストーン)
              優勝 ホセ・フロイライン・ゴンザレス(フェラーリ625)
              4位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              7位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
             ストリームラインでは小回りが利かず、順位を落としてしまう。

1954年 8月 1日  第6戦 ドイtツGP(ニュルブルクリンク)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
              4位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196R)
              前戦の教訓から、オープンホイールタイプのマシンを投入。
             このレースでマセラッティに乗るファンジオの友人マリモンがコースアウトし、
             死亡。

1954年 8月23日  第7戦スイスGP(ベルン)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)    

1954年 9月 5日  第8戦イタリアGP(モンツァ)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1954年 9月19日  ベルリンGP(アフス) ・・・チャンピオンシップ外
              優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              2位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              3位  ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
             ファンジオにチャンピオンシップを獲らせるために我慢していたクリンクが優勝。

1954年10月24日  第9戦スペインGP(バルセロナ)
              3位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R) 

1954年末      ファン・マヌエル・ファンジオが2度目のF1ワールドチャンピオンとなる。




1955年       メルセデス・ベンツはW196Rを290馬力にパワーアップさせる。
            この年スポーツカー選手権のメイクスタイトルが創設され、スポーツカーレースに
            合わせて、「300SLR(W196S)」を開発する。
            エンジンは直列8気筒2バルブDOHC(デスモトロミック)2982cc。
            パワーは310馬力/7400rpm。ミッションはZF製5速で最高速は290km/h。
            ボディはマグネシウムで、車重は899kg。
            シャーシーは二人乗りのためにW196Rの鋼管スペースフレームの幅を広げた
            ものにした。ブレーキは4輪インボードドラム。ル・マン出場時にはエアブレーキが
            採用された。
           

1955年 1月16日  F1第1戦アルゼンチンGP(ブエノスアイレス)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
            ファンジオはただ一人、96周、3時間あまりを一人で走りきった。

1955年 5月 1日  ミッレ・ミリア
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)
            1931年のカラッチオラ以来、メルセデス・ベンツに2度目の優勝をもたらす。

1955年 5月29日  アイフェル・レース ・・・ タイトル外
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年 6月 5日  F1第4戦ベルギーGP (スパフランコルシャン)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)

1955年 6月19日  F1第5戦オランダGP (ザントフールト)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)

1955年 6月11日  ル・マン24時間レース
              メルセデス・ベンツ300SLRに乗ったピエール・ルヴェーが宙を舞ってコース
              アウトし、観衆に突っ込んだ。死者72名負傷者150名という自動車レース
              史上最悪の事故となった。レースは続行されたが、メルセデス・ベンツは
              走行中のクルマを引き上げ、途中棄権した。

1955年 7月16日  F1第6戦イギリスGP (エイントリー)
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツW196R)
             スターリング・モス、F1で初優勝。

1955年 8月 7日  スウェーデンGP
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年 9月11日  F1第7戦イタリアGP(モンツァ)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1955年 9月18日  ツーリスト・トロフィー(アイルランド)
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年10月16日 タルガ・フローリオ
              優勝 スターリング・モス、ピーター・コリンズ組
                   (メルセデス・ベンツ300SLR)
              2位  ファン・マヌエル・ファンジオ、カール・クリンク組
                   (メルセデス・ベンツ300SLR)
             この1、2フィニッシュにより、スポーツカー選手権のメイクスタイトルを獲得する。
          
1995年末      ファン・マヌエル・ファンジオが2年連続3度目のF1ワールドチャンピオンになる。
            メルセデス・ベンツがレース活動の休止を発表。


1959年 9月28日  ルドルフ・カラッチオラが亡くなる。享年58歳。
Posted at 2013/03/09 19:27:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | | クルマ
2012年10月08日 イイね!

本の紹介 ・・・ 自動車王ヘンリーフォードが語るエジソン成功の法則

本の紹介 ・・・ 自動車王ヘンリーフォードが語るエジソン成功の法則









自動車王ヘンリーフォードが語るエジソン成功の法則   言視舎刊   1,470円(税込)



最近試乗j記ばかりなのでちょっと一息。


私は知識はそれほどありませんが、歴史を知るのが大好きです。
エジソンという発明家のことは、電球を発明した事ぐらいしか知りませんでした。
この本は1930年に書かれたものを翻訳したものです。
著者はなんとヘンリー・フォード。
ヘンリー・フォードはトーマス・エジソンの会社で働いていました。
後に独立することになるのですが、エジソンの励ましがなければ、自動車王ヘンリー・フォードは生まれていなかったかもしれません。

フォードはエジソンをほんとうに尊敬していた様子がこの本から伺えます。
フォードはエジソンの偉業を後世の人に伝えるために、ミシガン州ディアボーンにあるフォード本社近くの土地に、研究所だとかエジソンに関わるものを再現したのです。それも実際に使っていた建物を移設したりして。なんと、エジソンが少年のときに働いていた鉄道まで再現しているのです!(知っていたらゴメンナサイ)

この本を読んだら、実際にディアボーンのグリーンフィールドビレッジに行ってみたくなりました。
Posted at 2012/10/08 14:29:51 | コメント(1) | トラックバック(0) | | 日記

プロフィール

「motoGPホルヘ・ロレンソ選手の引退はショック!」
何シテル?   11/16 08:45
VWのダウンサイジング直噴過給エンジンTSIとツインクラッチミッションDSGの技術に興味を持ち、2008年2月にVWゴルフトゥーランに試乗してその走り...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

Brake assist setting 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2017/06/17 01:11:00
フロントロアアームのブッシュ交換 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/11/14 22:16:15
センターコンソールパネルの外し方 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/11/14 22:13:59

愛車一覧

フォルクスワーゲン ゴルフ (ハッチバック) フォルクスワーゲン ゴルフ (ハッチバック)
3台目のゴルフⅥGTIDCCパーケージ付です。 同じクルマに3回も乗るという貴重な経験が ...
フォルクスワーゲン ゴルフ (ハッチバック) フォルクスワーゲン ゴルフ (ハッチバック)
GTIが事故で全損になってしまい、次期車を物色しておりました。クルマの進歩は5年でかなり ...
トヨタ カローラレビン トヨタ カローラレビン
いわずと知れたハチロクです。ご他聞に漏れず、峠の走りに目覚め、親のクルマを下取りに、強引 ...
スバル レガシィツーリングワゴン スバル レガシィツーリングワゴン
1993年1月に登場した2代目レガシィツーリングワゴン 私が乗っていたのは登場から1年後 ...

過去のブログ

2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2018年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation