
タイトルは 明治天皇と日露戦争 です。
1957年製。 フルカラーですが、当時のフィルムをDVDに焼き直したものです。
近代史における日本の戦争について最近勉強(確認)しています。
タイトルに有る様に明治天皇自体を相当美化しています。
第122代 明治天皇
1852年11月3日(嘉永5年9月22日)誕生
在位1867年(慶応3年)-1912年(明治45年)
諱は睦仁(むつひと)。
幼少時の称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。
その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれた事もあった。
略歴
1860年に皇太子となる。 幼名 祐宮から睦仁と改名。
1867年 15歳で皇位に践祚した。
幕府に大政奉還の上表を勅許する。(逆に討幕派には討幕の密勅を下す)
1868年1月3日 王政復古の大号令を発し、新政府を樹立。
4月6日 五箇条のご誓文を発布。 明治と改元し、一世一元の制を定めた。
1869年 東京城(旧・江戸城)を皇居とし、遷った。
7月25日 版籍奉還を勅許した。新政府には三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通。
1871年8月29日 廃藩置県を断行。 中央集権体制を確立。
1870年2月3日(明治3年正月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行って旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。
※注:1872年(明治5年)に新暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を明治6年1月1日と定めた(明治5年太政官布告第337号)。
征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治6年政変では、勅旨をもって西郷隆盛の朝鮮派遣を中止させてこれを収め、1874年(明治7年)から1875年(明治8年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。
この自由民権運動への対応として、1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。
1882年(明治15年)には、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。
1884年(明治17年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行った。
1889年(明治22年)には、大日本帝国憲法を公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、近代天皇制国家確立の基礎となった。翌1890年(明治23年)には教育勅語を発し、近代天皇制国家を支える国民(臣民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。
日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争と日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導にあたった。
また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。
日露戦争後は、韓国併合や満州経営を進め、日本を植民帝国へと膨張させる政策を採用した。
1911年(明治44年)には、開国以来の懸案であった条約改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。
1912年(明治45年)7月30日、天皇は持病の糖尿病を悪化させ、崩御した。享年59。
天皇は極めて写真嫌いで、よく教科書に載っていた写真は肖像画です。
ビデオでは、天皇は日露戦争を避けるべく、政府・軍部からの報告に対し、簡単に戦争を許可せず、交渉による打開の道を探させた。
それと、陸軍が攻めあぐんで死傷者数だけがドンドン増える状況で、政府重臣が天皇に乃木大将の罷免を願いに行った時に乃木を擁護した。
また、皇居前でこれから戦地に招集された青年との会話で涙を流す所などが、天皇を美化する画像となっていた。
当時ロシアは中国東部(満州)、韓国へと進出し、日本をも併合する勢いであり、この戦争は日本にとって避けられない情勢ではあった様だ。
戦争は政府の最高役人(大臣)10人と天皇との御前会議(皇居内)にて最終的に決められます。 天皇の国交断絶する。で戦争開始となる。
明治37年 ロシアは朝鮮半島先端の旅順の203高地に陣を敷き日本は乃木将軍率いる陸軍が旅順攻略を目指していたが、正面攻撃により4日間で15,000名が全滅。 ハッキリ言って酷い攻撃の仕方だ。
それ以降も日本は負けるわけには逝かないので次から次から攻め続けます。 日本は単発銃であり、ロシアは機関砲です。 バッタバッタと撃ち殺されます。
当時の日本の人口は4,000万人です。
日本国内の町方の映像は、西部劇の日本版みたいであり、皆和服。
アルバイト多数による人海戦術の映画は戦場及び国内と、臨場感が有り、当時としては相当のお金をかけてます。 現在コンピューターによる人間のコピペで実際はそれほどその他大勢の役者さんは出演してません。 タイタニックなどは凄い編集です。
蒸気機関車は小さく、周りの風景からロケ地は北海道? などと思わせる映像です。
難攻不落の203高地だが、やがて落とします。
乃木将軍の二人の子もここで戦死する。(一人は高島忠夫)
日露戦争の参加軍人は日本が25万人。 ロシアが37万人。
明治38年3月10日 奉天入場。
ロシアの海軍である無敵バルチック艦隊が37年秋に日本に向けロシアを発ち、38年春に朝鮮半島に着くのだが、当時レーダー無く、無線も無い時代にどの経路からロシア海軍が着くのか? ここら辺は東郷大将の経験がものを云う。
対馬から来た38隻の艦隊と撃ち合うのだが、結果として
バルチック艦隊38隻中、沈没20隻。 破壊8隻。 捕獲5隻。
日本軍は3隻の破損。
大勝利したのは歴史の授業で知っているかと思う。
この戦争で日本は名実共に世界の列強国の仲間入りしたのでした。
この時、英国、米国が戦費の貸し出しを許可している。
この海の上の映像は船がオモチャである事が見え見えなんです。
当時は映画館の大型スクリーンで、観衆は映像の技術を知らないので本気で見ていたと思いますが、石炭蒸気船が迫力不足です。 こういう風には見ない方が幸せです。
明治天皇は嵐寛壽郎、東郷大将は田崎潤、島村少佐に丹波哲郎、広瀬少佐に宇津井健、第三軍司令部 乃木保典に高島忠夫、静岡の橘少佐に若山富三郎、代議士に天知茂。
昭和32年の映画であり、ゴジラ、モスラの出現よりほんの少し前の映画です。
このまま日本は軍国主義を通して行くのです。
第二次世界大戦の敗北まで。
戦争は勝っても負けても戦場に行く若者、残される家族にとっては悲惨です。
なお、天皇の略歴等のデータは ウィキペディア(Wikipedia)より拝借しています。