今年のGWは3泊4日で呉・岩国に展開したわけですが、出発した5月2日はあいにくの雨です。
実はせっかく広島県に行くのですから宮島にでも行こうとおもっていたのですが、雨が降っている中であちこち動きたくありません。
ということで必然的に屋内で何かを見るところに限られます。
さて・・・・5月2日でなければ行けない場所ってどこだろう?
そこでピンときました。
海上保安大学校の資料館に行こう!
海上保安大学校は広島駅から呉線で吉浦駅まで行きます。
そこからちょっと離れてるのでタクシーで行くのがBESTです。
バスもありますが本数が限られていますし、バス停から結構歩くんですよ。
さて、何故海上保安大学校資料館を選んだのか?
それには理由があります。
実はここは一般公開されているのに土曜日曜、祝日が休みなんです。
ということは、GWで開いてる日は5月1日と2日のみということになります。
見学できた人、意外と少ないんじゃないでしょうか?
さて、ここの資料館は「海上保安資料館」といいます。
海上保安大学校の正門をくぐってすぐのところにあるのですが、昭和55年に海上保安庁開庁30周年事業の一つとして作られたそうです。

解役した巡視船等のプレートや舵輪、救命浮輪等の艤装品が展示されています。
海上保安庁では用途廃止となって退役することを「解役」といいます。
”くま”は270トン型巡視艇のものですね。

これは歴史ある海上保安庁の最初の庁旗です。
海の青に船のシンボルのコンパス、そして警察マークを示す旭光を組み合わせたのが海上保安庁の旗となりました。
退色して青色ではなくなってしまいましたが歴史を感じますね。
昭和23年5月12日に旧海軍省庁舎に初代海上保安長官が掲揚され、この日を開庁記念日としています。

解役した船舶の時鐘です。

こちらは解役した船舶のプレート。
トン数や船舶番号が記載されていますね。

厳島神社?
これは厳島神社の大鳥居の一部です。
今の大鳥居は明治8年に作られたものですがフナクイムシに食い荒らされたため昭和26年、昭和39年に補修を行いました。
この際フナクイムシを研究していた海上保安大学校の教官が工事の指導を行い昭和41年に補修は完了しました。
その際記念に贈られたのがこの大鳥居の虫害材です。

こちらは現役の船舶の模型です。
ヘリコプター2機搭載型巡視船”みずほ”ですね。
この”みずほ”は日本の安全と生命財産を守るために任務についていますが、どこかの「みずほ」は売国さんでしたね(苦笑)

こちらは航空機のプロペラです。
手前は・・・なんでしょう?
解説には「SH103号」とあります。
SHとはsmall-Helicopterのことでしょうか?
となると川崎ベル47Gかな?
後ろはセスナ303号とありますが機種はなんでしょう?

巡視船PL”むろと”、PM”あわじ”のネームプレートです。
この書体をよく見てください。
結構独特なフォントで護衛艦などでも艦尾に書かれてますよね。

これがその書体の原稿なんです。
実はこの書体、歴史があります。
日清戦争の頃に伊藤海軍中将が生み出したもので、海上保安庁は写真の”むろと”型、”あわじ”型より採用しています。
これらは海上保安庁初の新造巡視船ですが、書体に歴史アリですね。
海上自衛隊の護衛艦もこの書体を使っています。
さて、ここからはショッキングな展示を。

無数の孔があいていますが、これは何かわかりますか?
これは平成13年12月に発生した九州南西海域不審船事件で北朝鮮の工作船から受けた巡視船PM”あまみ”の操舵室の弾痕です。
事件後切り取られてここに展示されていたんです。

私がこの海上保安資料館に訪れた理由がまさにこれです。
(ちなみに事件で自爆した北朝鮮の工作船は引き上げられて横浜の赤レンガの奥に展示されています)
”あまみ”は防弾性が考慮されていないため自動小銃の弾丸でも窓ガラスなどを貫通して内部に損害を与えています。

”あまみ”の操舵室にあった監視カメラ用テレビモニタです。
ブラウン管が破壊されていますが、まさに工作船から発射された弾丸がテレビモニタまで届いていたことを物語っています。

航海指示器のモニタも破壊されています。
写真からも判るようにモニタは上を向いていますが、弾丸は直撃しています。
無数に発射された弾丸が操舵室内をとびまわったことがわかります。
”あまみ”はこの交戦で3名の負傷者を出しています。
このとき対戦車ロケット砲までが”あまみ”にむけられて発射されています。
工作船には対空機関砲携帯地対空ミサイルまでが搭載されていましたが、この事件では海上保安庁に多くの犠牲が出る可能性があったんです。
私たち日本人はことあるごとに「平和」という言葉を口にします。
しかし憲法を音読して平和を祈る前にまず直視しなければならないのはまさにこのヒビがはいった窓ガラスです。
これは海上保安庁の巡視船に犯罪者が銃を乱射したという認識では大きく誤ることになります。
これは私たち日本人が北朝鮮という国家から銃を向けられ、そして撃たれたという何よりの証拠です。
平和は祈ったりデモをするだけでかなうものではありません。
祈るだけで平和になるのなら七夕に世界平和と書けば何十年誰一人戦争やテロで命を落とす人はいないはずです。
しかし祈ったり願ったりするだけで叶うほど平和は安っぽいものではありません。
どんなに平和を願ったところで相手がその考えを持っていなければ全く意味を持ちません。
平和は国民の生命財産をまもるため命がけで任務につく多くの人たちの汗と血によって守られていることを再認識すべきでしょう。

さて、こちらは巡視艇”あらかぜ”の船体構造の一部です。
船体構造がオール軽合金という当時非常に画期的な船舶でしたが、20数年の任務の後解役の後に確認してみたところ、損傷や腐食が全くありませんでした。
構造に関する展示はあまりないので非常に興味深いですね。

こちらは機雷です。
大東亜戦争では米軍は我が国の近海に大量の機雷が敷設されました。
機雷を敷設することで船舶の航行に障害をつくり、海軍の行動や資源や物資の海上交通を妨害するためです。
それが我が国の敗戦の大きな要因となるのですが、戦後も大量の機雷により非常に深刻な状態になっていました。
戦後すぐ日本海軍が解体されても機雷を処分する掃海作業は残されていました。
海上保安庁は発足後海上自衛隊に任務を引き継ぐまで掃海作業を行っています。
昭和25年にはGHQの要請で朝鮮戦争に特別掃海隊を参加させています。
機雷27個を処分しましたが掃海艇2隻を失い1名の殉職者を出しています。
この特別掃海隊の活躍は連合軍に認められ、サンフランシスコ講和条約で我が国の独立に良い効果をもたらしたといわれます。

こちらは”宗谷”関連の展示です。
宗谷といえば南極観測隊を輸送支援した砕氷船ですね。
宗谷は非常に珍しい歴史を持ちます。
昭和11年にソ連から貨物船として受注されて作られましたがソ連との関係悪化のため引き渡されず、民間の貨物船として運用された後、海軍籍を与えられ特務艦として活躍しました。
終戦により引き揚げ船となり多くの日本人を祖国に運ぶ任務を与えられています。
その後海上保安庁で巡視船となりますが、もともとソ連向けということで砕氷能力があったため南極観測支援活動のため砕氷船として就役しました。
6回の南極航海の後は再び巡視船として任務についています。
現在は東京港の旧船の科学館に展示されていますが、これだけすごい来歴をもつ船舶も珍しいでしょうね。

これな~んだ?
意外と身近なものと関係ありますよ。
これは海図作成用の偏わい修整機です。
空中写真(いわゆる航空写真)を撮るとどうしてもゆがみが生じます。
そのゆがみを修正して、鉛直方向(真上ね)から見た写真にするのがこの機械です。
どうもこの機械、昭和16年にドイツから潜水艦で運んだもののようです。

海上保安庁は海洋情報を集めることも重要な業務です。
左の機械は潮の満ち干きを記録する機械、右側は音響探層機です。
この音響探層機は昭和41年に東京湾に墜落した全日空機の機体捜索につかわれたものです。

こちらは海上保安庁で使っていた歴代小火器です。
南部14年式なんて使っていたんですね。

海上保安庁は海難事故での救助活動や海洋汚染の対処も重要な任務です。
それらの活動に欠かせない照明弾やマーカーなどですね。
以上、海上保安資料館でした。
このほかにもいろいろな資料、大変貴重な資料がたくさんあります。
なかなか行く機会はないかもしれませんが、是非見に行ってみてください。
おまけ。

海上保安大学校から呉港の沖を見るとこんな感じです。
海上自衛隊の輸送艦”おおすみ”型が3隻停泊しています。

こちらは同じく海上自衛隊の護衛艦”さみだれ”です。