
NHKのインサイドトヨタについて、
中国人の反応を見てたら、
中国での自動車産業の始まりを日本が奪い取っていた事実を知りました。
歴史には全く興味が無いのですが、張学良という名前は知っていました。その張学良が「民生汽車」という自動車(トラック)の会社を豊田が自動車を始める前から作っていたとは驚きました。
全く知らなかったので、詳細を調べて、内容をGeminiにまとめてもらいました。
1. 民生汽車工場:中国初の自国製トラック誕生(1928年〜1931年)「民生汽車(みんせいきしゃ)」は、旧満州の軍閥・張学良(ちょうがくりょう)の強い主導のもとで誕生しました。
設立の背景と体制場所: 奉天(現・遼寧省瀋陽市)にあった巨大な軍需工場「遼寧迫撃砲廠(りょうねいはくげきほうしょう)」経緯: 当時、中国国内の自動車は100%輸入に頼っており、特に軍用・物資輸送用の国産車が切望されていました。
張学良はこの兵器工場内に自動車部(通称:民生汽車工場)を設立させ、多額の資金を投じました。
技術導入: アメリカから技師(リプトン技師ら)を招き、アメリカ製トラック(インテルナショナル社製など)の構造を研究・解体してリバースエンジニアリングを行いました。
中国初の国産トラック「民生牌75型」1931年6月、同工場は中国歴史上初とされる国産トラック「民生牌75型」の試作に成功します。スペック: 載貨重量2.5トン、水冷6気筒ガソリンエンジンを搭載。国産化率: フレームやボディ、冷却装置など全体の約70%の部品を自前で製作しました(エンジンや電気系統など高度な部品はアメリカからの輸入に頼っていました)。
突然の終焉(満州事変)完成からわずか3ヶ月後の1931年9月18日、満州事変が勃発します。奉天を占領した関東軍(旧日本軍)によって遼寧迫撃砲廠および民生汽車工場は接収され、量産目前だった「民生牌75型」の製造計画は一瞬にして潰えることとなりました。
2. 同和自動車工業:満州国の国策自動車メーカー(1934年〜1942年)接収された民生汽車工場の設備や敷地を活用し、日本側が新たに設立したのが「同和自動車工業株式会社」です。
会社設立の概要設立時期: 1934年(昭和9年)3月 本社・工場: 奉天(旧・民生汽車工場の跡地・設備を包含)
出資形態: 満州国政府と南満州鉄道(満鉄)が過半数を出資する半官半民の国策会社。
日本の参加企業: 日本国内の自動車産業育成と連動させるため、当時の主要自動車関連企業が技術・資本参加しました。 戸畑鋳物(鮎川義介率いる日産自動車の前身) 東京自動車工業 / 東京瓦斯電気工業(後のいすゞ自動車や日野自動車の母体) 三菱造船(後の三菱重工業)
主な役割と業務内容同和自動車は「満州国内における自動車の一元管理・製造」を担う会社としてスタートしました。
組立と修理: 日本から送られてくるシャシー(車台)やパーツ(主にフォードやシボレーのライセンス車、あるいは日本の自給車)を組み立て、現地でボディを仮装・修理する。 バス・トラックの製造: 満鉄バスや軍用トラックの車体製造、および悪路走行用の特殊車両の改修。部品の国産化(試み): 満州国独自でのパーツ供給網を作ろうとしたが、技術的・産業的な集積が乏しく、ゼロからのフル国産化は困難を極めた。満洲自動車製造への統合と消滅(1942年)1937年に満州重工業開発(満業)が立ち上がり、日産の鮎川義介が主導権を握ると、満州の自動車産業は再編期に入ります。 同和自動車は純粋なゼロからの製造会社というより「組立・修理・統制」の色彩が強かったため、より本格的な製造を目指して設立された「満洲自動車製造株式会社(満自)」へと1942年に吸収合併され、会社としての歴史を閉じました。
3. 両者の歴史的つながり(比較まとめ)項目民生汽車工場同和自動車工業主導者張学良(中国軍閥)関東軍・満州国政府・満鉄・日本企業時期1928年〜1931年1934年〜1942年拠点奉天(遼寧迫撃砲廠内)奉天(旧民生工場の設備・敷地を継承)主な成果中国初の国産トラック「民生牌75型」の試作満州国全域への車両供給・改修・組み立て解体・終焉の理由満州事変による日本軍の接収産業統制による「満洲自動車製造」への吸収合併歴史の皮肉:張学良が「欧米からの自立」を掲げて建設した民生汽車工場は、皮肉にも満州事変によってそのまま日本軍の手に渡り、日本が満州国を支配するためのモータリゼーション(同和自動車)の拠点として塗り替えられることになりました。
日本の敗戦の後
満洲自動車製造株式会社(満自)は、満洲国の滅亡(日本の終戦)とともに解体され、その設備や基盤はソ連軍による接収と、その後の中国の復興期へと飲み込まれていく歴史をたどりました。
その後の過程は大きく3つの段階に分けられます。
1. 終戦直後:ソ連軍による接収と設備の持ち出し(1945年)
ソ連軍の管理(1945年8月): 1945年8月に日本が敗戦し、満州国が崩壊すると、旧・奉天(現・瀋陽)にあった満洲自動車製造の工場は進駐してきたソ連軍の管理下に置かれました。当初は車両の整備・生産を一時的に続けていました。
設備の徹底解体(1945年10月): その後、ソ連側は「満州重工業開発(満業)」傘下の重要産業設備を接収・賠償財産とみなしました。満洲自動車製造の工場にあった精密機械や製造ラインの多くはソ連軍によって完全に解体・撤去され、本国(ソ連)へと搬出されてしまいました。
2. 会社組織の消滅(1946年〜1950年)
日本国内に残されていた満洲自動車製造の支店や残務組織も、戦後の占領下においてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令により「閉鎖機関」に指定されました。
1946年12月に閉鎖機関指定を受け、1950年12月に清算手続きを終えて法律上も完全に消滅しました。
3. 跡地と技術の行方:中国自動車産業(第一汽車)への継承
ソ連によって主要設備が持ち去られた後の「奉天(瀋陽)の工場跡地や周辺の技術的基盤」は、その後の中国現代史の波に巻き込まれていきます。
中国共産党への接収: 1949年に中華人民共和国が成立すると、旧満州国時代に残された工場跡地、残存設備、そして現地に残っていた日本人技師や中国人作業員の技術・ノウハウは、中国新政府の重工業復興計画に組み込まれました。
第一汽車製造廠へのつながり: 1950年代、中国政府はソ連の支援を受け、長春に中国初の本格的自動車工場「第一汽車製造廠(現・第一汽車集団)」を建設しました。満洲自動車製造や旧満州国時代の自動車整備・製造ネットワークは、この第一汽車をはじめとする中国東北部の自動車・機械産業の土台(人材や産業基盤)として吸収・再利用されていきました。
まとめ
満洲自動車製造は、ソ連軍によって設備を根こそぎ解体・持ち去られたことで一度壊滅し、日本国内の会社組織も消滅しました。しかし、工場跡地や残された技術的インフラは、戦後の中国が自国の自動車産業(第一汽車など)を立ち上げる際の実質的な基礎へと変貌を遂げることになりました。
私が昔仕事でお手伝いした事が有る第一汽車とも関係が有ったのですね。
考え深いです。
中国の歴史書を見て鵜呑みに出来ないですが、日本の歴史書だけを見て信じる事も出来ません。
Posted at 2026/07/25 11:34:12 | |
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