
皆様、こんにちは。
昨夜、恒例の神通川での納涼花火大会がありました。
毎年我が家は屋上で花火の見学をするのですが、今年は久しぶりにBBQもしました。
我が家の屋上で、しかもBBQをしながら花火を見るなんて、改めて自分は平和な世の中におかれているということを実感します。
7~8年くらい前まで毎年この時期になると、戦争経験者のお客様が買い物ついでに当時の富山空襲のお話しをされる、ということが年にお一人くらいはいらっしゃたのですが、最近はほとんど見受けられなくなりました。
当家では、父も母も終戦当時は幼かったので、記憶もほとんど無いようですが、父は4歳のときに実家の宇奈月温泉の山から富山市内の空襲の炎を見た記憶があるといっていました。
そうです、富山の花火大会は富山大空襲で犠牲になった皆様の鎮魂と、復興、平和を願って終戦の2年後から始まりました。
本日のタイトルは高文研から出版された「8月2日、天まで焼けた 中山伊佐男・著」から拝借いたしました。富山大空襲を経験された著者の空襲の記録です。
ご近所にも戦争経験者がいらっしゃって、幾度となく当時のお話しを聞いたりしながら無駄に歳をとってきたサファリのオッチャンですが、一昨年の秋に生々しいお話しをされたお客様がいらっしゃいました。
一昨年の時点で75~80歳くらいにみえたご婦人はお買いものを終えおもむろに、、、
お客様・「アンタのところは新しいが?」
私・「ええ、昭和41年の暮からの営業です。」
お客様・「あ~そうなんだ、それで私が知らんかったんだ。」
私・「お客様も昔はこの辺りにお住まいでしたか?」
お客様・「うん、そうそう。○○(当店から北へ700mくらい)の辺り。だからこの辺りもよく知っとんがだけど、私が結婚してからこのお店ができたんやね」
私・「どうぞ、これからもよろしくお願いします。お客様、○○の辺りということは、○○中学校のご出身ですか?」
お客様・「ええ、そうだよ。私達が子供のころは・・・・・・」
と言って、当時経験した富山大空襲のお話しをされました。
お客様のお話しは、、、
昭和20年8月1日の夜にB29が空襲予告のビラを撒いたそうです。しかしすぐに空襲が始まらず、殆どの人々はハッタリだと思い、防空壕に入ることもせずそのまま家で就寝したそうです。
お客様のご一家は、お母様とお姉様の3人が神通川の対岸にあるお母様の実家に念のためビラ撒きの直後に避難されたそうです。
そして8月2日の未明、B29がそれはそれは恐ろしいくらいのおびただしい量の焼夷弾をばら撒いていき、自宅のある対岸は一瞬で火の海になったのをこの目で見たとおっしゃっていました。
翌日、自宅に戻るため神通川の橋を渡ると、神通川には黒焦げになった焼死体が何体も流れており、対岸の河川敷には数えきれないほどの黒焦げになった焼死体があった。特に流れる水の近くが多かった。そして自宅の周りは全てが焼き尽くされ、あるのは消失した家々と無数の焼死体。
お客様・「アンちゃん、あんた分かる?本当に地獄絵だった。真っ黒になった焼死体、想像できるけ?」
柔和なお顔と優しい口調で凄まじい経験を話されるそのギャップに驚きながら、写真などで見たあの光景が、当時当店の近辺でもあったということを聞かされました。
防空壕に入っていた人は助かったのかと聞いたところ、
「あんな物は焼夷弾には全く役に立たない。それどころか、私が入ることになっていた防空壕をのぞいたら、その中の人達は皆黒焦げの焼死体だったよ」と・・・。
6年ほど前に当店向かいの家の解体工事の途中、更地にする直前に何気なく地面を見ると、焼け焦げた住宅の柱などがありました。
解体工事の現場の方にお聞きしたところ、富山市内では特に珍しいことではなく、おそらく空襲で焼けたあと住宅を建てるために燃えた住宅のゴミを埋めたものだろうということです。
また今から30年ほど前の私が中学生だったころ、仲の良い友達が放課後に神通川の河川敷から焼夷弾の不発弾を見付けてきて私に見せてくれたことがあります。掘ってきたばかりの泥付きでもちろん伸管がついた物です。
終戦から69年が経過しますが、まだまだ戦争の爪痕が残っているようです。
先人達が築き上げた豊かで平和な国に感謝をしながら、昨夜の花火は万感の思いを持って見学させてもらいました。
如何なる場合でも家族を守るのは自分の役目だと自分に言い聞かせていますが、その時のそのお客様の言葉が忘れられません。
「アンちゃん、アンタ達、戦争なんかするもんでないよ。どこの国でも戦争すると必ず罪のない人達が犠牲になるからね・・・・・。」
補記
本日のブログは、お読みになって不快な思いをされた方もいらっしゃるかと思います。その点につきまして、お詫び申し上げます。
Posted at 2014/08/02 14:21:36 | |
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