
2025年8月14日(木)、広島は晴天。
両親の故郷、呉市蒲刈へお墓参りに行きました。弟は都合が悪くて今回は私一人で。
朝9時に出発。
国道31号線を呉方面へ、次は、185号線を東へ。
川尻から安芸灘大橋を渡ったところが父の故郷、旧安芸郡下蒲刈町下島。
こちらには「白崎園」が整備されています。
タイトル画像は白崎園のモニュメントとEKクロスです。
父の長兄はこの島から軍属として島を出ました。
父は昭和10年生まれ、8歳か9歳の頃、長兄を見送ったと。
父は晩年、「兄さんをここから見送ったのが最期じゃった。」と語っていました。
伯父はいわゆる赤紙による出兵ではないので軍人ではなく、軍属でした。
(これを知ったのは父の晩年です。父もあまり当時の事は話してくれませんでした。)
実は、我が家ではお盆は田舎に帰り、父方、母方の両方の親戚を訪ね、お墓参りをするのが習慣です。両親が亡くなった後もこの習慣は守っていると言うか、お盆にお墓参りをしないと気分が落ち着きません。

両親の生前には、父がお墓を拭いて、母が花を活けていました。
今回はお花は用意せず、お供えだけに。お花は3日で枯れて処分が大変なので。
(処分にわざわざ来れません。お坊さんの話では、お花が枯れることで生命を感じる・・・と言われていましたが。)
お墓周りとお墓本体を掃除した後で
ローソクに火をつけようとしたのですが、マッチ本体が。
完全な準備不足でした。
なので、般若心経を唱えることしかできませんでした。

昭和30年代に整備された共同戦死墓なので、現在としては駐車場は狭く、切り替えさないと帰れません。基本、軽トラック用の駐車場、道路です。
続いて蒲刈大橋を渡って母方祖父母の墓へ。
こちらも軽トラ専用のような道路で狭いです。

曲がり角に一時的に駐車。(厳密には違法かもしれませんが、田舎・島々ではよく見る光景です。)
たぶん、叔父叔母が掃除したのだと思われ、割と綺麗でした。
叔父叔母の家を訪ねる前に

向桟橋から安芸灘大橋。

桟橋から船が停泊していたので。

向こう側が「三ノ瀬地区」です。
伯父伯母の家を訪ねると在宅でした。
以前はエアコンがなく、在宅時には玄関などは半開きで風通しがよく、周りの音もよく聞こえていたので挨拶をすれば直ぐに出てきてくれたのですが、今回はちょっと待ちぼうけ。
エアコンがなくても島では風通しが良くて扇風機だけで過ごせたのです。しかし、この数年、さすがに暑いのでエアコンを設置したそうです。祖母の生前にはエアコンはなく、それでも生活はできたのです。
こちらでそうめんを頂きました。
一回り年下の従妹は祝日の11日に日帰りをしたらしい。
ちなみに私は伯父伯母の家には電話をせずにそのまま。
私が高校まで家には電話もなく、子供の頃(小学校5~6年生)、
土曜日の午前は学校、土曜日の昼から祖母の家に遊びに行く特は
母には「おばぁちゃんのとこに行く。」と言って、
国鉄で海田市(かいたいち)駅から仁方(にがた)駅まで行き、
歩いて15分で桟橋へ
フェリーで向(むかい)まで、そこから歩いて5分。
私は祖母に「おばぁちゃん、こんにちは。」
祖母は「ソラン君、来たんね。」
もちろん、祖母は私が遊びに来ることなど知るはずもないのですが、
甘いカレーを食べさせてくれました。
カルピスもあったのですが、
水で薄めるとめちゃめちゃ薄いのです。祖母が言うには既に薄めていたとか。
この薄められたカルピスは冷蔵庫に入っていました。
(当時、我が家には冷蔵庫はなかったので氷もなく、カルピスもなかった。
少なくても小学校まで「氷の入った冷たいカルピス」を飲んだ記憶がないのです。)
また、今ではセパレート帰郷とか。
父方祖母の生きている時はこちらでも寝泊まりをしました。母はそれなりに動いていたと思うのですが、父の兄さん(私の伯父)の嫁さん(私の伯母)は母より若い、父には妹が二人。やはり気を使っていたのかと今となっては感じます。
むかしむかしの50年以上前、祖母に
「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と甘えていたころが懐かしいのです。
祖母は我が家で亡くなる直前まで
「ソラン君、ソラン君」と言ってくれていました。
Posted at 2025/08/16 11:21:32 | |
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