朝から雨、しかし、選挙には行かなくては。
8時でも意外と多かったです。
8時半に帰宅すると次男の弟が来ていました。
直ぐに着替えて、呉市蒲刈へ向けて出発。
1時間少々で到着、桟橋付近に駐車して叔父の家に行くまでにズボンは濡れてしまいました。
叔父の子供(私から見れば従妹夫婦、従弟)は既に到着。
先月、父の葬儀に会ったばかりです。
11時にこの島のお寺さんが到着。
お寺さんは島中の方の事を知っている様子、まぁ、狭い町なので町中が親戚のようなものですね。
今回はお経をお寺さんに合わせて全員で読みましたが、私はとてもついていけません。
その後はお説教。
やはり、昨日と同様、法要の意味を言われました。
また、お墓とか、仏壇に供える花についても。
生花をいけるのは、命を感じ取るためであると言われました。
なるほど、一理ありますね。
花が枯れる事で生命を感じる・・・・。
まだまだ、修行が足りません。
終わったところでお昼(食事)。
叔父はお弁当を用意してくれていました。
これは豪華です。
見た目以上に栗は美味しいかったです。
お弁当は1/5程度を食べ、残りはお持ち帰りです。
叔母はそうめんを作ってくれていました。
暖かい手作り料理を戴けるのは久しぶりです。
雨が強くなる前に安芸灘大橋を渡らなければ。
お土産に
カープのお米。
呉市のバターケーキ、これは有名です。
ミカンを一袋、父に供えて欲しいとのことでした。
父はミカンが好きで毎日のように食べていました。
島から本土へ。
二輪車と歩行者は通行止めとなっていました。
祖母の十三回忌も無事に終了。
私も一安心です。
祖母について全く書いていませんでした。少しだけ。
母方の祖母は102歳で12月に私の家で亡くなりました。
その年の夏、祖母は「海田へ行く、海田へ行く。」と伯父夫婦にしきりに言っていました。
祖母は自分の残された命を判っていたのでしょうか?
最期は自分の娘(私の母)、可愛い孫(私の事)に囲まれて過ごしたかったのでしょうか?
両親は祖母を連れて帰りましたが、介護認定4の祖母は母は常に介護をしていました。
それでも母は島へ戻そうとはしませんでした。
祖母はごはんをしっかりと食べ、テレビを見ては寝ての繰り返し。
また、私の弟の子(祖母から見れば曾孫)を抱いて可愛がっていました。
祖母は
「うちにも抱かせてぇやぁ。」と言ったのは今でも忘れられません。
ところが母が目を離した時のこと、祖母は台所で転んでいたそうです。
その後はほとんど寝たきり、しかし、意識はしっかりしていました。
私の話も聞こえていました。
それもだんだん聞こえなかったのか、それとも聞こえても話せなかったのか。
ある日、
「お祖母ちゃんは目が見えんようになった。」と私に話したのです。
それでも私は
「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と声をかけ続けました。
それがある晩、
息をしていない・・・、いつ亡くなったのか判らなかったのです。
私の両親が最期を看取りました。私はその時はちょうど二階にいたのです。
直ぐに降りたのですが、間に合いませんでした。
祖母が一番可愛がったのは私、
私も小さい時から「おばぁちゃん、おばぁちゃん」と甘えていました。
月に一度は国鉄、フェリーに乗り継いで祖母に会いに行っていたのです。
祖母は最後を私の家で過ごし、私の家で亡くなって本当によかったのでしょうか?
当時、私が医療とか介護について勉強し、
私の家の近くの施設に入れていれば、
もう少し長生きできたのではと。
しかし、誰も知りあいのいない施設のベットで過ごすのも如何なものかとも。
私自身、最期はどのように迎えるべきか、
最近色々と考えているのです。
田舎には来年の夏、また来ます。
Posted at 2017/10/24 22:21:02 | |
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