
先の連休最終日には,伊豆に出かけました.
鎌倉幕府初代将軍,源頼朝ゆかりの地です.
平安時代末期,平治の乱に敗れた若き頼朝は、ここ伊豆の地に流刑の身となりますが,平清盛らの政治に不満を持つ地元の豪族に担がれる形で挙兵したとされています.
ここでちょっと話が逸れますが,頼朝を助命した平清盛について少し...
頼朝は,平治の乱の敗者である源義朝の嫡男であったため,処刑されるのが当然と見られていました.
しかし,勝者清盛はなぜか,彼を島流しに留め,一命を助けてしまいます.
清盛の優しさとか,義母池禅尼による嘆願とか,諸説ありますが,数年前にNHKで放映された大河ドラマ「平清盛」で,新しい説が紹介されていました.
平清盛と源義朝,ともに貴族に仕える武士として互いに相手を意識し,新しい武士の世を創ろうとしていましたが,平治の乱では敵味方に別れてしまい,ともに新しい世の中を創ろうとした願いは,はかなく消えてしまいました.
清盛には,思慮あるはずの義朝のこのような行動が歯がゆく,残念で仕方なかったのでしょう.
この無念さが,息子,頼朝に,父,義朝を重ねて見せることになりました..
「生きて,新しい世の行く末を,しかと見届けよ」 by 清盛
このドラマ,視聴率は今ひとつだったようですが,この部分だけでも見る価値があったように思います.
閑話休題,頼朝紀行です.
そんな清盛の気持ちを知ってか知らずか,挙兵を思い立った頼朝は,地元の豪族,北条時政らとともに,代官,山木兼隆の屋敷を襲撃します.
この時,頼朝が代官屋敷が燃えるのを眺めていたのが,守山八幡宮とされています.
挙兵の碑によれば,代官屋敷を襲撃したのは数十騎の武士と言われていますが,意外と少なかったのですね.
こんなに人数が少ないのに,後方でのんびり見物してて良いんかい,頼朝くん?!
(これについて話し出すと切りが無いので,自粛)
当初,この神社は大山祇神を祭神として,この一帯の総鎮守とされていたのですが,後から八幡神を合祀して八幡宮となっていたため,源氏の氏神ということで,本拠としては最適だったのでしょう.
ただ,普通八幡宮と言えば,誉田別命を始めとして,比売神,神功皇后を合わせた三神を祀るのが一般的であるのに,ここには八幡三神からは誉田別命のみが祀られています.
上に書いた”のんびり見物してた頼朝くん”とともに,普通ではない何かを感じるのは,考え過ぎかな?
鳥居の後ろの石段を数段上ると,拝殿(弊殿)があります.
こんな低い場所から,戦況が確認できるんかいな?
と思ったところで,背後に現れたのが,
百段を軽く超える石段です.
はい,屋敷の火事も確認できそうですね.
頑張って登りましたよ.
地元の体育系クラブの部員からは,さぞや恨まれていることでしょう.
100メートルも上りませんが,深い緑もあって,心地よい風が吹き抜けました.
背後は岩山の様相ですが,当初はこの山そのものがご神体だったことが想像できます.
元々は石徳高神社と呼ばれていたのも,そういう謂れでしょう.
このような自然神の場合,本殿の千木・鰹木といった男女神を区別するアイテム(?)も無いのかもしれません.
この神社の麓には,北条時政が奥州征伐の戦勝を祈願したとされる,願成就院があります.
かつては奥州平泉の毛越寺を模したといわれる庭園が広がっていたそうですが,幾多の戦火に遭って,ほとんど壊滅してしまったのだとか.
戦さえ無ければ,東北に行かなくても,そんな大寺院・庭園が見られたのかも,と思うと,
早雲,秀吉,ちょっと恨むぞ.
この池にはモリアオガエルも生息していて,
当日も姿は確認できませんでしたが,その美声を聞くことができました.
このお寺には,運慶作の三体の国宝仏(阿弥陀仏,毘沙門天,不動明王)がいらっしゃいます.
東大寺の仁王像のような,年取ってからの運慶の作品は,「運慶工房作」のような感じで,運慶プロデュースという感覚が強いのですが,ここの仏様は,まだ有名になる前の,30代の若き運慶が,まぎれも無く自らの手で彫ったのだそうです.
鎌倉様式の先駆けとなる,力強さの中にもたおやかさを感じさせる仏像を鑑賞するのも,良いものですよ.
国宝に指定されて管理が厳しくなったため,残念ながら写真撮影は禁止されています.
ぜひご自身の目で,確認してみてください.
目と心の保養の後は,舌の保養.
イカが美味しい季節になってきました!

Posted at 2015/05/09 21:05:03 | |
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