
【首都ソウル陥落】 「慰霊碑」すらない、忘れ去られた『 漢江大橋爆破事件 』 1950年6月28日未明、ソウルは雨が降っていた。真っ暗な闇を突き抜け市民は、龍山と鷺梁津をつなぐ漢江人道橋(漢江大橋)に延々と集まった。
北朝鮮軍戦車部隊が南侵二日目に弥阻止線を越えたことから、『 首都ソウル死守 』を約束した 「 李承晩大統領と政府要人」 は27日未明、南行きの列車に乗り、首都ソウルとソウル市民を棄て逃走。
■ 当時、漢江人道橋は、南へ脱出するソウル市民が街を分断する漢江を歩いて渡るための唯一の鉄橋であった。
▶4000人余りの人々と車が橋に殺到し、混雑のあまり身動きも取れない状況だった2時30分頃、天地を揺るがす轟音とともに火柱が上がった。歩道橋が真っ二つに裂け、橋上の人と車がばらばらに散らばり漆黒の川の中に飲み込まれた。北朝鮮軍の追撃にパニック状態となった韓国軍がTNT爆薬 3600ポンドを使い市民が退避中の歩道橋を爆破したのだ。政府に棄民されても生き抜くという一念で、橋を渡っていた民間人500~800人が理由も分からぬまま命を失った。

▶歩道橋爆破を指示したのはチェビョンドク陸軍参謀総長。臨津江と禮成江橋を爆破しなかったので北朝鮮軍進撃速度が緩まなかったと信じていた彼は「爆破に失敗したら銃殺」と急き立てた。しかし前日、漢江人道橋の爆破タイミングについて軍参謀たちが激論を繰り広げるとき、彼は居眠りしていたという(イチャンロク「漢江人道橋爆破の内幕」)。
北朝鮮軍が漢江人道橋付近に現れたのは歩道橋爆破が終わり6時間が過ぎたころ。爆破判断が緊迫した瞬間だったとしても軍首脳部が市民の命を救うことにもう少し考えが及び、歩道橋の交通整理に対応する時間を割けば、これほど多くの犠牲者が出てこなかっただろう。
▶いずれかの人のせいばかりすることもできない。国民の生命と安全を担当するのは、李承晩内閣の当時の行動や判断が全てだ。北朝鮮軍が事前通告した南侵を無視し、北朝鮮軍が短時間で首都ソウルに迫ると狂乱状態となり、敵の銃口の前に晒された無力な国民の安全を政府は「知らない」とさえ言った。 この、写真に写ったのは、上流階級の人々でした。 中流・下層階級は、無視されたまま ~ !
▶一昨日、漢江ノドゥル島で歩道橋爆破時亡くなった英霊たちを癒す慰霊祭が60年目に開かれた。国の保護を受けるどころか、国を導く人々の誤った判断のために青天の霹靂のような死に様にあり、彼らの魂は死んでも成仏せず空を浮遊しているのだ。その慰霊祭を主催したのも李明博政府ではなく国連韓国参戦国協会という民間団体だ。政府は今からでも悔しい犠牲者と遺族に謝罪し、ノドゥル島に慰霊塔を立てなければならない。
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2016/07/14 15:45:20