
「カミカゼ」でも、「バンザイ突撃」でもない、旧敵、英・米が真に畏敬し、戦後も尊崇の眼差しを送るのは、自艦乗員よりも多くの、敵兵を救助する、前代未聞の英断を下した、帝国海軍の武士道だった。 元英国海軍大尉で、戦後外交官として活躍した、サムエル・フォール卿は、記者会見で、工藤中佐指揮する、駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され厚遇された思い出を、「豪華客船でクルージングしているようであった」と語った。
フォール卿は心臓病を患っており、来日は心身ともに限界に近かった。これを実現させたのは、何としても存命中に、墓参したいという本人の強い意志と、ご家族の支援があったからである。付き添いの娘婿ハリス氏は「我々家族は、工藤中佐が示した武士道を何度も聞かされ、それが家族の文化(Family Culture)を形成している」とさえ語った。 ◆ 総員敵溺者、救助用意
第二次大戦中、昭和17年(1942年)3月1日午後2時過ぎ、ジャワ海において日本海軍艦隊と、英国東洋艦隊巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」が交戦し両艦とも撃沈された。その後、両艦艦長を含む乗員420余名の一団は約21時間漂流した。 彼らの多くは艦から流出した重油と汚物に汚染され、加えて灼熱の太陽、サメの恐怖等で衰弱し生存の限界に達しつつあった。中には絶望し劇薬を飲んで自殺を図る者さえいた。 翌2日午前10時頃、日本海軍駆逐艦「雷」は、単艦で同海域を哨戒航行中、偶然この集団を発見した。工藤艦長は見張りの報告、「左30度、距離8000(8km)、浮遊物多数」の第一報でこの集団を双眼鏡で視認、独断で、「一番砲担当者だけ残し、総員敵溺者救助用意」の号令を下令した(上級司令部には事後報告)。 一方、フォール卿は、当時を回想して、「日本人は未開で野蛮という先入観を持っていた、間もなく機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と覚悟したという。ところが「雷」マストに救難活動中の国際信号旗が揚げられ救助艇が降ろされた。 「雷」はその後、広大な海域に四散したすべての漂流者を終日かけて救助した。雷の乗組員らは、救助した英兵の油で汚れた体をきれいにふき取り、食料と衣類を提供して丁重に処遇したという。120名しか乗務していない駆逐艦が、敵将兵422名を単艦で救助し介抱した。勿論本件は世界海軍史上空前絶後の事である。 士官全員が恐る恐る整列を終えると、艦橋から降りて来た工藤艦長は、彼らに端正な敬礼をした後、英語で次のスピーチを始めたのだ。「貴官達は勇敢に戦われた。本日は日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と。さらに士官室の使用を許可したのである。
一行は翌3日午前6時30分、オランダ病院船「オプテンノート」に移乗した。その際舷門で直立して見送る工藤艦長にフォール卿は挙手の敬礼を行い、工藤は答礼しながら温かな視線を送ったと言う。 一方、工藤艦長の英断は、戦後米海軍をも驚嘆させている。米海軍は昭和62年(1987年)、機関誌「プロシーディングス」新年号に、フォール卿が「武士道(Chivalry)」と題して工藤艦長を讃えた、投稿文を7ページにわたって特集したのである。同誌は、世界海軍軍人が購読しており、国際的な影響力は大きい。 ●めぐみ りゅうのすけ/1954年生まれ。1978年、防衛大学校管理学専攻コース卒業。1979年、海上自衛隊幹部候補生学校卒、世界一周遠洋航海を経て艦隊勤務。1982年退官。金融機関勤務などを経て、ジャーナリズム活動を開始。『海の武士道 DVD BOOK』(育鵬社)、『敵兵を救助せよ!』(草思社文庫)など著書多数。
※SAPIO2018年7・8月号 * 一部抜粋

2018/08/12 07:00
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2018/08/14 09:14:55