
71回目の終戦日を迎えた。戦後70年の節目となった昨年は第二次世界大戦を題材にした映画が相次いで公開されたが、今年はもの静かだ。戦後70年というが、捕虜などになり翌年、日本に帰還した兵士にとっては今年が戦後70年ではないか。実際、そんな元軍人は少なくない。旧陸軍の二式複座戦闘機「屠龍(とりゅう)」の部隊に所属した航空技術将校、梅田春雄さん(95)はその一人。陸軍航空士官学校で学び航空部隊に配属されたが、南洋の基地に着任し愕然とした。「部隊で飛べる屠龍が2機しかなかった。米軍の空襲で壊滅状態だったんです」。転戦する島を追うように米軍の攻撃は続き同僚の多くが戦死した。「もう自分しか語ることができないかもしれない…」。帰還から70回目の夏、梅田さんが“翼を奪われた”陸軍航空部隊の壮絶な戦史を語った。(戸津井康之)
戦闘機・爆撃機・偵察機・指揮機…多用途で期待された「屠龍」
「屠龍は当時、陸軍で採用されたばかりの新型の複座戦闘機。大きな期待を担った機体でした」
昭和16(1941)年、陸軍航空士官学校に入学、航空技術将校としての教育を受け、18年5月、陸軍少尉となり同9月、ニューギニアのウェワクの基地に転戦していた飛行第13戦隊第3中隊に配属された梅田さんはこう振り返る。同隊は屠龍の精鋭部隊だった。
屠龍は南洋でも運用されたが、日本本土に配備された同機を有する防空部隊は、米軍爆撃機B29などを迎撃する“日本一の精鋭部隊” -->
17年に陸軍が採用した屠龍は、世界で名を馳(は)せた旧日本海軍の戦闘機「ゼロ戦」などの陰に隠れ、現在ではその戦果が語られることは少ないが、2基のエンジンを搭載した双発複座機(ゼロ戦は単発機)として、その大きな機体、大出力、複座を生かし、戦闘機としてだけでなく、爆撃、偵察、指揮機など多用途での活躍が期待された陸軍機だった。
“日本一の精鋭部隊”の誇り
屠龍は南洋でも運用されたが、日本本土に配備された同機を有する防空部隊は、米軍爆撃機B29などを迎撃する“日本一の精鋭部隊”と称されていた。
八幡製鉄所など日本の基幹産業があった北九州は、B29が陸上基地を拠点として行った初めての日本本土空襲(昭和19年6月16日)があった地域だが、ここでも屠龍の壮絶な戦果が記録されている。
同年8月20日の八幡空襲の際、迎撃のため飛び立った野辺重夫軍曹機(後部座席の同乗者・高木伝蔵兵長)は、B29への体当りを敢行、1機目の破片が後続のB29にもあたり、2機を同時に撃墜している。:産経新聞
命を懸けて北九州の市民を守った2人を顕彰する慰霊碑が、今も同市内の丘の上にひっそりと建っている。
翼を奪われた航空部隊
梅田さんは大正10年、東京都生まれ。父が海軍軍人だった梅田さんは迷わず軍人の道を選び、陸軍予科士官学校から陸軍航空士官学校へと進んだ。陸軍少尉となった梅田さんが配属されたのは兵庫県・加古川を編成地とする飛行第13戦隊だった。
「私が配属された当時、13戦隊は加古川からウェワクへと移動していました。私は爆撃機などを乗り継いで島の基地を目指しました」
18年8月、東京・立川の飛行場から爆撃機に乗ってマニラからダバオ、アンボンなどを経由して、9月、ニューギニアのウェワクの基地の飛行場に着任した。
だが、そこで梅田さんが見た光景は壮絶だった。
「着任直前、米軍の大規模な空襲により、日本軍の基地はすでに壊滅状態だったのです…」
梅田さんがウェワクに着任したとき、同基地に数十機集められていたはずの屠龍のほとんどが空爆により大破。「まともに飛行できる屠龍は1、2機しかありませんでした」
航空技術将校となった梅田さんが初めて着任した実戦部隊は“戦闘機を失った航空部隊”だったのだ。しかし、中破した故障機などを修理し、梅田さんたちは希望をつないだ。
Posted at 2016/08/30 09:49:05 | |
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