山形城〔霞城〕(山形市)
山形城は延文元(1356)年に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が、延文2(1357)年に築城しました。一説では古くからあった城を改修したともいいますがが、山形城を築いて本拠としました。以来、兼頼の子孫は最上氏を称して、山形城を居城としました。
戦国時代に入ると、最上氏一族は分裂していましたが、出羽の驍将といわれた12代最上義光は山形城主になるや、一族の討伐にとりかかり、 それが治まると外部に手を伸ばし、遂には最上川流域の統治に成功しました。
文禄年間、最上義光が近代城郭にふさわしい規模に整えました。
最上家は、関ヶ原の戦いの後57万石の大大名となりますが、元和8(1622)年に義光の孫にあたる義俊が改易され、近江国に5千石、三河国に5千石合わせて1万石を与えられ、近江の大森に移されました。
その後、鳥居忠政が入城しましたが、後に忠恒が嗣子が亡く、改易され、寛永13年(1636)年、保科正之が入城し、その後は松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏など親藩や譜代大名が次々と入封しました。
廃藩の後明治29(1896)年に本丸と二の丸の土地が歩兵第32連隊の兵営地となり、その時、本丸の堀と土手が埋められました。
昭和61(1986)年に国の史跡に指定されました。
平成3(1991)年には二の丸東大手門が復元され、平成16(2004)年には本丸の大手門(一文字門)の石垣が復元されました。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されました。
平成25(2013)年本丸大手門枡形内の高麗門及び土塀が復元され平成26(2014)年8月から公開が始まりました。現在も徐々に復元計画が進行中のようです。
H8.10.12
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H22.9.14(写真差し替え)
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