上洛を夢見てこの地に滞在した阿波公方(平島公方)の館跡
2007年05月05日
室町幕府第10代将軍足利義稙は大永元(1521)年、管領の細川高国と対立して京都から追われは大永3(1523)年年撫養の岡崎で病死しました。足利義稙の養子義冬(義維)は、義冬は一旦阿波の細川持隆に擁せられて上洛し堺公方といわれましたが、天文元(1532)年阿波勢が京都で戦って敗れたので、当時足利氏と由縁の深い天竜寺領であった阿波国平島庄赤池の西光寺に移ったあと、平島館に住まいました。これが初代阿波公方義冬です。
その後、嫡子義栄(義親)が阿波国の三好三人衆に擁立され上洛し、永禄11(1568)年征夷大将軍に任ぜられ、室町幕府14代将軍となりましたが、まもなく織田信長が足利義昭を奉じて上洛したため、義栄は阿波に帰り、撫養で病没しました。その弟、義助は平島館で上洛の機会をうかがっていましたが、細川氏・三好氏が滅亡し、室町幕府も織田信長が足利義昭を追放したため滅んだため、機会を得られませんでした。
阿波はその後長宗我部氏、蜂須賀氏が治めることになりました。長宗我部元親は、平島公方の伝統的権威に手をつけず、公方の所領を従来通り保証したのに対し、江戸時代、徳島藩主蜂須賀氏は、公方の禄を百石内外に減じ、4代目平島公方より平島姓を名乗らせるなど公方の権威を低下させる措置をとりました。9代公方義根にいたって蜂須賀氏に増禄を求めたが容れられず、文化2(1805)年阿波国を去って京へ帰っていき、阿波公方の歴史に幕を閉じました。
周囲110mの四方に掘をめぐらしていた、「御所」とも呼ばれ広大な敷地に、京都の公家屋敷と武家屋敷を兼ねた豪勢なものだったそうです。建物の一部は一部は小松島市地蔵寺・阿南市西方の吉祥寺などに移建されているそうです。阿波公方民俗資料館の北東隣接地に小さな丘があり、「平島館跡」の標柱が立っていました。丘の麓には公方夫人のお墓などもありました。
Photo Canon EOS 30D
H19.5.3