菅谷館〔菅谷城〕(嵐山町)
国指定史跡、畠山重忠の居館跡・菅谷館〔菅谷城〕
2008年07月19日

菅谷館は、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ、中世の重要な遺跡です。
畠山重忠は長寛2(1164)年、畠山庄司重能を父とし、相模の名族三浦義明の娘を母として、武蔵国畠山(現大里郡川本町畠山)に生まれました。治承4(1180)年、源頼朝が伊豆石橋山に挙兵したとき、父の重能が平家に仕えていたため、弱冠17歳の重忠も
平氏に属し源氏方の三浦氏を攻めました。その後間もなく頼朝に仕え、鎌倉入りや富士川の戦いには先陣をつとめ、宇治川や一の谷合戦では、数々の手柄をたてました。また、児玉党と丹党との争いを調停するなど、武蔵武士の代表的人物として人々の信望を集め頼朝からも厚く信頼されていました。頼朝死後も和田義盛らとともに、二代将軍源頼家をたすけて政治に参与しましたが、北条氏に謀殺されました。四十二歳でした。
鎌倉時代の史書『吾妻鏡』によると、元久2(1205)年6月19日、「鎌倉に異変あり」との急報に接した重忠は、わずか百三十四騎の部下を率い
「小(男)衾郡(おぶすまぐん)菅谷館」を出発し、同月二十二日、二俣川(現横浜市)で雲霞のごとき北条勢に囲まれ、部下とともに討たれたとあります。嵐山町菅谷にあるこの城郭が、その「菅谷館」ではないかと古くから言われてきました。
城郭の西には鎌倉へ通じる街道筋が残されており、この城郭のどこかに重忠の館があったことも充分考えられます。
その後の菅谷館は詳しくわかっていませんが、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると長享2(1488)年に、山内・扇谷の両上杉氏がこの須賀谷原で戦い、戦死者七百人、馬は数百匹が倒れたと記され、館付近の戦いの激しさを伝えています。
現在の遺構は、本郭、ニの郭、三の郭などと、それらを防衛する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは戦国時代のことと考えれています。
昭和48(1973)年に国指定史跡となり、平成20(2008)年3月28日、菅谷館に松山城跡、杉山城跡、小倉城跡が加わり「比企城館跡群」として国の史跡に広域指定されました。
国立女性教育会館の隣にあります。
城跡には、埼玉県立嵐山史跡の博物館などもあります。その他土塁、空堀などかなりの規模で遺構がよく保存され、見応えのある城です。
平成29(2017)年4月6日、「続日本100名城」(120番)に選定されています。
H20.7.12
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R3.12.28(写真差し替え)
住所: 埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷
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