開陽丸青少年センター(江差町)
江戸幕府の悲劇の軍艦・開陽丸を復元展示している開陽丸青少年センター
2005年10月26日

開陽丸青少年センターは、明治元(1868)年に江差沖で座礁、沈没した江戸幕府の悲劇の軍艦開陽丸を復元し、引き揚げられた遺物を展示しています。
文久2(1862)年、江戸幕府は軍艦をオランダへ発注するとともに、留学生の派遣を依頼しました。内田恒次郎(正雄)、榎本釜次郎(武揚)、澤太郎左衛門、赤松大三郎(則良)、田口俊平、津田真一郎(真道)、西周助(周)ら蒼々たるメンバーが派遣されました。
軍艦は、文久3(1863)年に設計が開始され、慶応2(1866)年に完成し、日本への引渡しのため出港、慶応3(1867)年3月26日、横浜へ入港、5月20日に引き渡しが行われました。
大政奉還の際には江戸湾に在りましたが、慶応3(1867)年12月には放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した薩摩藩に対し、江戸市中取締の庄内藩らによって襲撃され、砲火により焼失する事件が起こり、薩摩藩士は薩摩藩船の翔鳳丸に乗って江戸脱出を図ったため、開陽丸は僚艦と共に大坂へ追撃しました。その後大坂の警備に就いていましたが戊辰戦争が勃発すると、阿波沖海戦で開陽丸は薩摩藩の春日丸、翔鳳丸を砲撃し、翔鳳丸を由岐浦に座礁させ圧倒的な勝利を得ました。
鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は、慶喜へ謁見するため開陽丸を降船していた榎本武揚と入れ違いで開陽丸に乗船して、副艦長澤太郎左衛門に命じ江戸へ帰還しました。
慶応4(1868)年4月11日、江戸城無血開城となりましたが、榎本は、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を拒否し、旧幕府軍脱走兵と共に品川沖を脱出、仙台を経て10月20日蝦夷地鷲ノ木沖に到着しました。その後、松前城を攻略した旧幕府軍を援護すべく11月14日江差沖へ向かい無血占領しました。しかし、11月15日、土地特有の風浪に押されて座礁し、沈没しました。
明治6(1873)年、本格的な引き揚げが行われ、大砲や弾丸、錨などが引き揚げられました。
昭和49(1974)年、潜水調査により開陽の遺留品が発見され、翌年より引揚げ作業が本格的に行われることとなった。大砲、弾丸、火薬缶、ロープ、帆布、サーベル、日本刀等3万2905点が引揚げ・脱塩処理されました。また、オランダに保管されていた設計図に従い開陽丸を復元するプロジェクトも開始され、復元軍艦内に引揚げ品を配置し、「開陽丸青少年センター」としてオープンしました。
昭和50(1975)年、開陽丸の船体および遺物は日本初の海底遺跡として登録されています。
開陽丸青少年センターは海底遺跡に指定された史跡の展示を中心に、開陽丸と江差との関わり、開陽丸の歴史と構造、乗組員の生活、などを展示。内部も船室などを再現したり、模型や映像を利用した紹介がされています。
開館時間 9:00~17:00
休館日 4~10月は無休
11月〜12月30日は月曜日・祝日の翌日
(但し祝日が月曜日の場合、翌日と翌々日が休館)
12月31日~3月:冬季閉館
入場料 大人500円、子供:250円
H17.7.15
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.7.17(写真差し替え)
住所: 北海道檜山郡江差町字姥神町1番地10
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