鶴ヶ岡城〔大宝寺城〕(鶴岡市)
大宝寺氏、酒井氏の居城・鶴ヶ岡城(大宝寺城)
2012年08月20日
鶴ヶ岡城は古くは大宝寺城とよばれ、鎌倉期以来戦国期まで庄内に君臨した大宝寺氏(武藤氏)の居城でした。
大宝寺氏は元々大泉氏といい、鎌倉時代に地頭としてこの地に封じられ、大宝寺城を築きました。
天文元(1532)年、兵火のため大宝寺晴時は大山の尾浦城に居を移し大宝寺城はその支城となりました。
大宝寺義氏は天正11(1583)年、最上義光と結んだ家臣の前森蔵人(東禅寺義長)とその弟・勝正らの謀反により自害に追い込まれ、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり期に乗じた上杉景勝によって、天正16(1588)年あっけなく併呑されました。
上杉氏もまた、尾浦城を庄内地方の本拠とし大宝寺城は支城とされました。天正18(1590)年検地を行った際、これに抵抗した地侍を中心に一揆が起きました。この時、大宝寺城番芋川正親は城を守りきれず落城したため、一揆の鎮圧にあたった直江兼続は大宝寺城の修復を行い越後兵を常駐させました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、庄内地方は山形の最上義光の支配するところとなりました。
慶長8(1603年)年、義光は庄内地方の拠点として大宝寺城、東禅寺城、尾浦城などを整備拡張し、酒田浜に大亀が上がったことを祝し東禅寺城を亀ヶ崎城と改称するとともに亀ヶ崎に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称されました。鶴ヶ岡城は義光の隠居城として修復されたといわれています。
元和8(1622)年最上氏改易の後、信州松代より酒井忠勝が入部し、庄内14万石(幕末17万石)の本城としてそれにふさわしく整備拡充されました。
酒井氏は徳川幕府譜代の大名として明治初年まで約250年間、庄内を治めましたが戊辰戦争において抗戦の末官軍に降伏開城しました。
明治8(1875)年鶴ヶ岡城は解体され、本丸、二の丸が公園となり本丸跡に荘内神社が建てられました。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(108番)に選定されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.7.15
住所: 山形県鶴岡市馬場町4
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