同志社墓地〔新島襄・八重、山本覚馬外同志社関係者の墓〕(京都市左京区)
新島襄・八重、山本覚馬らが眠る同志社墓地
2013年09月10日
同志社大学の創立者新島襄は、明治23(1890)年1月23日に神奈川県大磯で46才で天に召され、1月27日の葬儀のあと学生たちに担がれ、当時共同墓地であった若王子山に埋葬されました。そして翌年1月 鞍馬産の自然石に、勝海舟翁の揮毫になる碑銘を刻んだ墓碑が建立されました。
その2年後、八重の兄で新島襄の盟友でもあった山本覚馬も亡くなり、新島襄の傍らに埋葬されました。その後、この墓地には山本家や新島家、そして同志社ゆかりの人物が埋葬されるようになり、明治34(1901)年には共同墓地の内148坪を新島・山本両家の墓地とする許可が八重に下りました。
八重も死後この墓地に埋葬され、襄の墓の隣に眠っています。碑名は徳富猪一郎(蘇峰)のもので、蘇峰もこの墓地に眠っています。
覚馬、八重の父権八、母佐久、弟の三郎、覚馬の娘久栄、新島襄の父民治などの他、外国人宣教師も眠っています。
新島襄の墓は次第に墓碑の風化が進んだため再建が協議されましたが、たまたま昭和61(1986)年6月不慮の事故によって倒壊しました。
そこで新島先生がアメリカ留学から帰国される際に「日本にキリスト教主義学校を」と声涙倶に下る募金演説をされたゆかりの地であるヴァーモント州ラットランド産の花崗岩をもって、昭和62(1987)年1月16日にこれを再建しました。
碑銘は先の墓碑から写し刻んだものであります。(現地説明板より)
Photo SONY NEX-7
H25.8.2
住所: 京都府京都市左京区鹿ケ谷若王子山町
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