舘山城(米沢市)
伊達政宗生誕地、伊達氏の居城説がある舘山城
2014年05月30日

舘山城は、伊達晴宗が天文17(1548)年に福島県桑折西山城から米沢に拠点を移したときの主城と考えられています。
以後、伊達氏は輝宗、政宗と引き続き、天正19(1591)年に政宗が岩出山(岩手沢)城に移るまでの43年間を米沢で過ごしました。
通説では、伊達氏の居城は米沢城で、政宗の父輝宗は、天正12(1584)年に家督を政宗に譲り天正13(1585)年に亡くなるまで隠居城として使用し、政宗が天正15(1587)年から天正18(1590)年にかけて整備を進めていましたが天正19(1591)年、豊臣秀吉の命令で岩出山城に移る際に取り壊したといわれています。
しかし、実は伊達家の本城は米沢城ではなく、舘山城という説もあります。当時の記録は「館」や「要害」といった地名の付かない表記のため、米沢城が伊達政宗の生まれた伊達家の本城で、舘山は山城として別に有していたのか舘山が政宗の生まれた伊達家の本城で、米沢は伊達家以降に築城されたのか、はっきりとは分かっていません。
本城は、大樽川と小樽川に挟まれた舌状丘陵部に築かれた全長350mを有する山城で、大規模な土塁と堀切や縦堀によって、主郭(曲輪Ⅰ)、馬出(曲輪Ⅱ)、西曲輪(曲輪Ⅲ)を構成しています。遺構の保存状況も良好で、大手門、物見台、虎口、桝形、搦手、帯曲輪等の遺構も明確に残っています。
城の周囲には、3ヶ所の平坦地(南館・北館・東館と仮称)が置かれ、北館からは石垣を配した遺構や家臣団の屋敷跡群、東館からは庭園跡の一部や井戸跡、敷石遺構が発掘調査によって検出されています。また、南館からは大規模な空間を整地していることが確認されています。このように舘山城は自然の地の利を生かした要害の城で、山城を本丸として直下に居館を配する構造は、後の岩出山城や仙台城にも取り入れられ、伊達氏山城の原点となったものと考えられます。
現在、城は東北電力舘山発電所の裏側に位置し、発掘調査が進められています。
米沢市教育委員会では平成22(2010)年より、5ヶ年計画で国指定史跡化を目指して舘山城跡整備保存事業に取り組んでいます。平成22(2010)年度から平成24(2012)年度の調査では、舘山東館から建物の柱跡や井戸跡のほか、庭園を想定させる遺構が発見されました。また、山城南側登城路(大手口)には、通路の一部に粘土を貼って舗装していることが明らかになり、登城路の大半が崩壊していることから、故意による可能性も指摘されました。
平成25(2013)年度は山上にある主郭の調査が行われ、曲輪Ⅰ西側の桝形虎口を中心に、全長114mに及ぶ石垣が発見されました。石垣の大部分は舘山城が使われなくなった時点で破壊されたと思われ、一部に2段目の石が残るものの、最下段の1段目が埋もれている状態でした。この石垣は非常に大きな発見でしたが、それ以上に新たな謎が深まることになったのです。
舘山城の普請(築城)については、「伊達治家記録」などに天正12〜13(1584〜85)の輝宗による隠居所の普請、天正15(1587)年の政宗による地割、再普請の記事があるのみで、政宗が米沢から岩出山に転封されて以降、蒲生、上杉時代を通じて記録は残っていません。このことから、発見された大がかりな石垣は、天正15(1587)年の政宗が行った普請によるものという考えが浮かびますが、仙台城との比較を含め石垣の造り方を詳細に分析したところ、江戸時代となる慶長5(1600)年以降、米沢でいえば上杉景勝が米沢を治めていた頃の技術によって造られた可能性が高いことが明らかになりました。
これらによって、政宗が天正年間に一歩進んだ石垣造りの技術を持っていたか、史料には残らなかったものの景勝が舘山城を整備したかの2つの可能性が生じてきました。政宗が造った石垣であれば、これまでの石垣研究を見直す大きな発見であり、景勝が造ったとなると、これまでの上杉家の歴史を塗り替えるほどの大発見となります。
謎が多く残る城ですが、今後の発掘調査が期待される城です。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H26.5.3
住所: 山形県米沢市大字舘山
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