高城川合戦古戦場(木城町)
大友氏と島津氏の決戦の舞台・高城川合戦古戦場
2014年08月03日
元亀3(1572)年、木崎原の戦いにより、日向国の実力者であった伊東氏を破った島津氏はその勢力をますます拡大していくことになります。
当時、伊東氏と関連のあった豊後国の大友氏はそれに危機感を感じ、高城に対峙する台地に野久尾ノ陣、本陣(松山之陣)、田間之陣、河原之陣、松原之陣の5つの陣を設け、5万の兵で高城を攻め、民家に火を放ち、その日三度に渡り、高城を攻撃しました。しかし、高城城主である山田新介有信は、この危機を島津義久の援により、盛り返し切原坂にて豊後勢を多数討ち取りました。
その後、大友氏は援軍を得て攻撃するか、我らのみで攻撃するかで軍議が一致しないまま、田北鎮周を先陣に、他の兵を上手く分けて、島津軍の先鋒、北郷蔵人の陣を襲いました。
島津側は苦戦を強いられ、豊後軍はそのまま大軍を率いて攻めに入りましたが、敵の河川を利用した先鋒に混乱に陥り、竹鳩ヶ淵(木城町と高鍋町の境)にて足を取られ、溺れてしまいました。その後残された豊後勢は競って、北に敗走し、大敗を喫しました。島津軍はそれらの兵を追討し、美々川(日向市)までの間に豊後軍の死骸で埋め尽くされました。
この高城川の戦いにより、大友、島津両軍の武将が多く失われました。島津義久は、これらの戦死者の霊を供養するため、鹿児島の福昌寺の僧を高城に派遣し、高城河原において、豊後塚と名づけ、300人余りの僧侶を近郊より集め、大施餓鬼を行いました。これらの供養は敵味方隔てなく行われました。
この戦いから一段と力をつけた島津氏は、九州全域にその存在を見せ始めてきます。
これに対し、大友氏は天下統一を目論む豊臣秀吉の援軍を得て、天正15(1587)年、再度この高城を舞台に戦いが繰り広げられます。
(現地説明板などより)
切原川南側に説明看板が立っています。川を挟んで北側が、大友軍の本陣松山之陣(松山塁)です。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.18
住所: 宮崎県児湯郡木城町高城
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