祇園之洲砲台(鹿児島市)
薩英戦争で実戦に使われた祇園之洲砲台
2014年08月17日
祇園之洲という名称は、稲荷川河口の祇園社(八坂神社)に由来します。
五社のひとつとして歴代藩主の信仰が厚く、京都祇園社にならった祇園祭り(オギオンサァ)は、今もなお華やかな御神幸行列を伝えています。
このあたり一帯は昔、遠干潟で祇園浜と呼ばれていましたが、島津家第27代島津斉興のもとで藩政改革を断行した調所広郷が、兵士の屯集所として埋め立てました。
その後、斉彬がここに砲台を設置することになり、嘉永6(1853)年10月に完成しました。
文久3(1863)年の薩英戦争で初めて実戦に供されました。
7月2日正午に始まった砲撃戦は、3時間を経過し、双方に相当な被害を出していました。最後尾で祇園之洲砲台を攻撃していたレースホース号が、目の前で浅瀬に乗り上げたのはその時です。ところがすでに砲台は、イギリス艦隊のアームストロング砲の側射で打ち砕かれ、藩士たちは指をくわえて敵艦が救出されるのを見送りました。
イギリス側の死傷者63名、薩摩側の死傷者13名でしたが、城下の被害はすさまじく、西洋との力の差を知った薩摩藩は、この戦いを契機に開国へと動き始めました。
現在、松方正義の筆になる「薩英戦争記念碑」が建てられています。
この地には、近年、平成5(1993)年8月6日の水害で流出を免れた五大石橋のうち、残った玉江橋と高麗橋を、隣接する石橋記念公園には西田橋を移築・復元整備しています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 鹿児島県鹿児島市清水町
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