祇園之洲公園にある道路や架橋建設に力を尽くした岩永三五郎の像
2014年08月17日
肥後の石工、岩永三五郎幸安は、寛政5(1793)年熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保11(1840)年、時の家老調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるいました。
すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井堰、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたっては九州各地に 190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋しました。
薩摩藩在中10年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げました。岩永三五郎は、嘉永2(1849)年薩摩を去り、嘉永4(1851)年10月5日、八代郡鏡町芝口にて59才で没しました。
岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるため、祇園之洲公園に平成2(1990)年10月5日、岩永三五郎之像が建てられました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.19
住所: 鹿児島県鹿児島市清水町