清浄寺(日置市・旧日吉町)

清浄寺(しょうじょうじ)は、真宗大谷派の寺院です。
小松家の菩提寺は、かつては園林寺でしたが、廃仏毀釈により廃絶していました。
昭和33(1958)年9月6日に小松家32代・重春公夫人、小松陞子(のりこ)氏の依頼で佐多・根占両墓地の一代より十五代までの遺骨に代わる霊土を譲り受けました。同様に永吉・鹿児島の墓地からも土を譲り受けて持ち帰り、昭和34(1959)年6月16日、小松家先祖供養塔を園林寺墓地に建立しました。同時に「小松家累代之総儀」の位牌を清浄寺に安置するようになり、以来、清浄寺が園林寺に代わる新たな菩提寺となりました。
小松家(禰寝家)は平重盛を先祖としています。重盛の子平維盛の長男六代公は、平家が壇ノ浦で滅亡した時、頼朝に捕えられました。文覚上人の懇願でやっと助命され、仏門に入り名を妙覚と改めた。妙覚は我が子、次郎に後を継がせるよう懇請、次郎は禰寝院(南大隅町・旧根占町)に着任しました。これが吉利禰寝家初代清重公です。後に文覚が幕府に捕えられる事件があり弟子妙覚は斬首の刑に処せられました。このあわれな六代公僧形の座像は21代清雄公の時製作されたと伝えられ、ここ清浄寺の本堂に安置されています。
また、境内には小松帯刀の像があります。平成20(2008)年5月15日、小松帯刀を守る会によりお仮屋跡の吉利小学校を望む小松家の菩提寺清浄寺に建てられました。
小松帯刀は天保6(1835)年、喜入(現鹿児島市)領主の肝付兼善の三男・尚五郎として生まれ、のちに吉利(日置市)領主であった小松家の養子となり、小松帯刀清廉と改名しました。吉利領主となった帯刀は領地に足を運び、領民の労苦をねぎらうことに努めたので「小松家の名君」と呼ばれました。名君の誉れは藩内に知れ渡り、藩の近代化を進める島津斉彬の元で火消隊長や、文久2(1862)年には家老に昇進し、倒幕に向けての薩長同盟や大政奉還を将軍徳川慶喜に進言するなど明治維新の礎を築きました。
維新後は参与として領地である吉利の返上と家格の返還を行い、版籍奉還の規範を諸大名に示すなど手腕を発揮しました。新政府の中核として最も活躍を期待された一人であったが明治3(1870)年、36歳の若さで死去しました。その早すぎる死で維新後の活躍が果せなかったことを惜しみ「幻の宰相」と呼ばれています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.20
住所: 鹿児島県日置市日吉町吉利3018
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