中世肥後の国人であった隈部氏の城館跡で国の指定史跡・隈部氏館
2015年01月21日
隈部氏館跡は、永野城とも称される中世肥後の国人であった隈部氏の城館跡です。天正15(1587)年に起こった「肥後国衆一揆」の中心人物となった隈部親永が、隈府城(現:菊池神社所在地一帯)に移るまで本拠としていました。隈部氏は、大和源氏の宇野親治を祖にするといわれ、赤星氏・城氏とともに、肥後国守護菊池氏の三家老でした。
江戸時代の地誌「肥後国誌」には、「猿返城跡」の城名で「永野城トモ云(略)大手舛形ノ跡 城ノ礎石井若殿ノ部屋ノ跡 庭石泉水ノ跡 花園ノ跡等于今歴然タリ」とあります。記事の内容から隈部氏館跡を指していることは明らかです。主郭の平場に上がる登城道は枡型になっており、側壁に石垣が積まれています。「城ノ礎石」と「若殿ノ部屋ノ跡」は礎石建物跡を意味し、三棟分の建物跡が確認されています。「庭石泉水ノ跡」は、庭(立石)も現存して泉水としての形を留めています。
館跡は、北東は背後の「城床」と呼ばれる猿返城跡(標高685m)の山から下る山腹中に位置します。この地点は、地形の大きな変化点となっており、山腹が急激に傾斜を減じて末広がりの緩傾斜になっています。中心部の標高は約345mで、上永野地区の「構口」、三差路からは228mの比高差があります。縄張りは、この地形を最大限に利用したものです。山腹を大規模に造成して、主郭の広い平場が出来ています。ここに礎石建物跡と庭石遺構が残っています。
一方で、館跡裏側の尾根には、やや小振りの2本の掘切が走っています。裏尾根を断ち切る遺構です。これに対して正面側の南西下には、大規模な掘切が設置され、対岸の東寄りに「(伝)馬屋跡」の張り出し区画が残っています。
昭和49(1974)年から3カ年間、(旧)菊鹿町教育委員会で発掘調査を実施し、検出された遺構は野外展示されています。その後、平成5(1993)年度から町史編さん事業に関連して補足調査を重ね、平成21(2009)年7月23日に国指定史跡になりました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.12.28
住所: 熊本県山鹿市菊鹿町上永野