近世念珠関址(鶴岡市・旧温海町)
近世の鼠ヶ関(念珠関)址・近世念珠関址
2015年05月10日

鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所址が二ヶ所あります。鼠ヶ関字関に慶長年間(1596-1614)から明治5(1872)年まで設置されていた近世の関所址と、南方1kmの県境にある古代の関所址です。
古代の関所の鼠ヶ関は勿来関、白河関と並んで奥羽三大関所の一つとされていました。この鼠ヶ関が文献に現れる最も古いものは、能因の歌枕の「ねずみの関」であり、10世紀頃には文人や旅人に親しまれていました。
大正13(1924)年、近世の関所址を主たる対象に、内務省より「史蹟念珠関址」として指定をうけ、それ以後この名称が古代から近世に至る関所名とされて来ました。
しかし、昭和43(1968)年10月山形、新潟両県境一帯の発掘調査により近世念珠関とは別に古代関所址の存在が確認され、遺跡は柵列址、建物址、須恵器窯址、製鉄址、土器製塩址が地下1mほどのところに埋蔵されており、関所の軍事施設と高度の生産施設をもつ村の形態を備えていました。この遺跡の年代は、平安中期から、鎌倉初期の10世紀から12世紀に渡っています。これらを総合して古代鼠ヶ関址及び同関戸生産遺跡と名付けられています。
このように、古代の関所のかたち貌が明らかになった事から、近世の関所址を「近世念珠関址」とし、「古代鼠ヶ関址」と区別する事にしました。
近世念珠関は江戸時代には「鼠ヶ関御番所」と呼ばれていました。その規模は延宝2(1674)年や弘化3(1846)年の絵図によると街道に木戸門があり、門に続いて柵が立てられていました。
番所の建物は3間(約6m)に7間(約14m)平屋建、茅葺で屋内は3室に仕切られ、中央が取調所、両脇が役人の上番、下番の控室でした。また、この番所は沖を通る船の監視や港に出入りする船の取締もしていました。番所の建物は廃止後、地主家の住居となり、後二階を上げる等改築されましたが、階下は昔の面影を留めています。
関守は、最上氏時代の慶長年間から鼠ヶ関の楯主佐藤掃部が国境固役に当たりました。酒井公転封後の寛永5(1628)年からも鼠ヶ関の大庄屋となった佐藤掃部が代々上番と沖の口改役となり、下番は足軽二人がいました。天和2(1682)年以後は藩士が上番となり掃部は追放者立合見届役となりました。
鼠ヶ関と源義経の伝説としては、義経記で義経一行奥州下りの鼠ヶ関通過の条は、歌舞伎の勧進帳を思わせるごとき劇的場面として描かれています。又、当地方には次のような物語が伝えられていますs。義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来ますが、馬下からは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過しました。そして、関所の役人の世話する五十嵐冶兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅立って行ったといいます。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.5.2
住所: 山形県鶴岡市鼠ヶ関
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