清水城(大蔵村)
最上氏の一族清水氏の居城・清水城
2015年05月20日
文明8(1476)年、山形城主最上氏2代直家は、北進策と最上川舟運の統制の一環として6男兼義(成沢城主)の子満久を清水に配しました。
満久は、清水氏を名乗り、はじめ白須賀に居館を構えましたが、2年後の文明10(1478)年、当地に築城しました。以後清水氏代々の居城となりました。以来7代138年にわたり、北は新庄市萩野、東は舟形町長沢、西は鮭川村曲川、羽根沢に至る最上郡の大半の地に知行3万5千6百石を領し、領内に11ヶ所の館を築き治民施政に当たりました。
清水氏は初代満久(孫治郎)、2代義久(隼人助)、3代義標(孫市郎)、4代義令(式部)、5代義高(孫次郎)、6代義氏(孫三郎)、7代義親と続きました。
清水城は、最上川左岸に突き出た段丘とその周りの深い谷とからなる自然の要害にあたり、地の利を生かした本丸東西36間・南北46間、二の丸東西52間・南北43間の連郭式でした。当城は、仙北の小野寺氏と庄内の武藤氏に対抗する最上氏の拠点の役割を果たしました。
清水氏が当地に城を構えたのは、戦略上の拠点としてばかりでなく、この地で最上川の舟運を統制し、内陸地方の経済を掌中に収めようとしたことにもあったとされます。戦国期には城下に町場も形成され、商業活動も盛んに行われたと思われます。
清水氏6代義氏には嫡子がなく、最上義光の3男義親(大蔵大輔)が7代目を継ぎました。しかし、かつて徳川家康の近習で宗家を継いだ異母兄家親に代わって幼少時に豊臣秀頼に仕えていた義親を山形城主に擁立しようという動きもあり、慶長19(1614)年10月13日家親派軍勢の急襲により落城、義親は33歳で稲沢で自刃しました。一般には、義親が大坂方に通じたことがその理由と伝えられますが、つまびらかではありません。義親の嫡男義継も11月11日、13歳で切腹しました。
清水城は、元和8(1622)年の最上氏改易に伴って破却されましたが、本丸、二の丸、内堀、外堀、土塁跡、曲輪などが残っており、平成23(2011)年12月27日山形県指定史跡に指定されました。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.5.3
住所: 山形県最上郡大蔵村大字清水字比良
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