中野城(山形市)
最上氏一族中野氏の居城・中野城
2015年05月24日
中野城は、中世における山形城の支城として、山形三代最上氏3代最上満直の次男満基が、応永年間(15世紀初め)に築城した連郭式の平城です。
本丸は東西約340m、南北約250mで、約73,000平方メートルの広さですが、二の丸を含めると171,500平方メートルで、内堀は幅6mから10mで、高さ2mの土塁を巡らし、二の丸に当る南西部には外堀を構築し、東北部には寺院を配置しています。
中野の地は、戦略上、経済上のみならず、水・陸の交通上からも重要な地点でした。宗家最上氏と中野氏は、最上一族中最も密接な関係で、初代満基が中野氏を称していらい、満基の長男2代満氏は、最上氏7代当主となり、満氏の長男3代義淳は最上氏8代で、山形城と中野城主を兼ねました。
4代目は義淳の2男義建が、5代目義清は義建の長男で、最上氏10代最上義守の父にあたります。
そして、6代義時は義守の2男にあたります。
義時は、兄の最上義光との家督争いから不和となり、更に天正3(1575)年、義時方の義光呪詛一件が露見して、義光方の夜襲にあい、中野城や寺院は灰じんと化したといわれています。
義時は切腹し、その子備中は仙台へのがれ、中野氏は滅亡しました。中野領は義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は、最上氏の家臣団に編入されました。
元和8(1622)年の最上氏の改易後は、この城も廃城となり、ついに破却されました。
現在、当時の面影を偲ぶものは、堀形の一部と、楯・北口・中小路・楯坂・袋町・御倉前・築坪山・七日市場・的場・大手窪・馬場宿・馬洗場などの地名です。現在の大郷小学校は、本丸の西部に位置しています。
大郷小学校には、石碑が建っています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.5.4
住所: 山形県山形市中野506
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