小手指ヶ原古戦場(所沢市)
新田義貞の鎌倉攻めの際の古戦場・小手指ヶ原古戦場
2016年01月05日
小手指ヶ原は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけてしばしば合戦が展開されたところです。当時は一面の原野で、北方は入曾(狭山市)から藤沢(入間市)あたりまでがその範囲に含まれていました。背後には狭山丘陵があり、また鎌倉街道の沿線にも位置していたため、古来戦場となることが多かったのです。
特に歴史的な合戦のひとつとして、元弘3(1333)年上野国新田庄(現在の群馬県太田市)を本拠地とする新田義貞の鎌倉攻めがあります。同年5月8日に義貞は北条氏の支配する鎌倉幕府を倒すため新田庄で兵を挙げます。利根川を渡り、鎌倉街道を一路南下した新田軍は11日にここ小手指の地に至ります。太平記によると、はじめは150騎ほどだった一行は進むにつれ沿道の武士を加え、最後には20万騎にも及んだと記されています。
新田義貞の軍勢とそれを迎え撃つ鎌倉幕府軍は、緒戦となった小手指ヶ原で30余回も討ち合いますが、勝敗はつかず、新田軍は入間川(狭山市)に、幕府軍は久米川(東京都東村山市)にそれぞれ引きました。翌12日に新田軍は幕府軍に押し寄せ、幕府軍は分倍河原(府中市)まで退きます。その後幕府軍は援軍を得て一旦は立て直すものの、結局21日には鎌倉極楽寺坂への新田軍の進軍を許し、5月22日幕府軍の北条高時らが鎌倉東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。
なお、背後の小高い塚は白旗塚と呼ばれ、源氏の末裔である新田義貞がここに陣を張り、源氏の旗印とされる白旗を立てたという伝承があります。
(現地説明板より)
Photo Canon EOS M3
H27.10.25
住所: 埼玉県所沢市北野2丁目12
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