大多喜城(大多喜町)
本多忠勝の居城としても知られる大多喜城
2017年08月20日

大多喜城は、大永元(1521)年に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされています。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきましたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではありませんが、真里谷氏が築いた小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられています。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13(1544)年に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされました。しかし、天正9(1581)年に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたといわれています。
近世城郭としての大多喜城は天正18(1590)年、この地に10万石で封じられた徳川四天王の一人である本多忠勝によって築城されました。
本多忠勝は、関ヶ原の戦いの後伊勢桑名に移り、大多喜には5万石で次男の忠朝が継ぎましたが、大坂夏の陣で戦死し、甥の政朝が継ぎましたが、元和3(1617)年に播磨龍野に移り、阿部正次が入りましたが、元和5(1619)年、小田原に移封され、元和9(1623)年に青山忠俊が入りましたが、寛永2(1625)年に改易となりました。寛永15(1638)年阿部正次の孫阿部正能が入り、その後正春の代の元禄15(1702)年三河刈谷藩に移封されました。そして短期間で去りますが、稲垣重富が入った後、元禄16(1703)年に大河内長沢松平家の松平正久が入城してからは9代続き、最後の城主松平正質(まさただ)の代に明治維新を迎えました。
現在は、本丸付近に土塁が、大手門付近に堀跡が残り、二の丸に大井戸が残ります。本丸跡と大井戸は「上総大多喜城本丸跡 附 大井戸、薬医門」の名称で千葉県指定史跡に指定されています。
建造物としては、大多喜高校に保存されている二の丸御殿薬医門が現存しており、前述の通り「本丸跡」の附指定で千葉県指定史跡となっています。
再建天守は昭和50(1975)年に天保13(1842)年模写の三層天守絵図などを元に、江戸時代の一般的な天守を参考として、推定復元を行って建築したものです。千葉県立中央博物館大多喜城分館として房総の中世から近世までの武器・武具や城郭、武家社会などに関する歴史 資料を展示紹介する専門館と総南地方の地域の文化財を紹介しています。
開館時間 9時00〜16:30
休館日 毎週月曜日・12月26日から1月4日
入館料 一般200円、高・大学生100円、
小・中学生、65歳以上、障害者手帳保持者は無料
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.7.15
住所: 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
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