塩飽の島民が活躍した咸臨丸の渡米を記念して建てられた咸臨丸渡米150周年記念顕彰碑
2017年11月15日
日米修好通商条約批准お使節団が、米艦ポーハタン号の乗船して渡米するに伴い、その随行と遠洋航海実習のため、幕府軍艦咸臨丸が、万延元(1860)年1月19日、サンフランシスコ目指して浦賀を出航しました。咸臨丸には、軍艦奉行木村摂津守・艦将勝麟太郎以下九六人と、近海で遭難し今回送還する米人11人が同乗しました。乗組水夫50人中35人が塩飽の出身でした。
咸臨丸は出航直後から大暴風に遭遇し、航程37日の大半は木の葉のごとく翻弄され、船室に潮が打ち込み炊事もできぬ難航海でありましたが、乗組員の懸命の努力と、米人の協力よって2月26日にかろうじてサンフランシスコに到着しました。
航海中病人が続出し、広島青木の源之助、佐柳島の富蔵ら水夫3人が海軍病院で死亡しました。
帰路は天候に恵まれ、5月5日無事浦賀に入港し大任を果たすことができました。
咸臨丸の渡米は、日本船による初の太平洋横断として、わが国の海運史上に残る壮挙でした。
時代の変遷により長い鎖国政策を放棄して、開国を決定した徳川幕府は、新海軍を創設すべく、浦賀においてわが国最初の洋式軍艦鳳凰丸を建造し、長崎に海軍伝習所を設立して、観光丸・咸臨丸を練習船とし、若き幕臣らにオランダ人教官から洋式海軍の伝習を受けさせました。その節、古来幕府の御用船方を勤め、航海操船技術に高い評価を得ていた塩飽に対し、軍艦を操縦する水夫のの徵券を求めました。
塩飽衆は、国恩に報いるはこのときと思い定め、嘉永6(1853)年から文久3(1863)年に至る間、塩飽千二百五十石の所領に対する軍役として、島民から張銀(臨時課金)を徴収し、水夫一人五両の年俸と旅費を支給して、毎年十人の壮丁を選抜し。軍艦乗組員として送り続けました。咸臨丸の水夫もその一員です。
幕府海軍創設の陰に、塩飽の島民の大きな奉仕があったことは世に知られていません。
幕府の徴用に応じた水夫達は、やがて明治の海運界の各層に進出し、新時代の発展に大きく寄与することとなりました。
顕彰碑は、渡米150周年にあたり、ここに世紀の大業に活躍した塩飽水夫の名をとどめ、その功績を永く讃えんとするものです。
顕彰碑の隣には、瀬戸内国際芸術祭のVertrek「出航」という咸臨丸を顕彰した作品がたっています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H29.10.7
住所: 香川県丸亀市本島町泊