引田城(東かがわ市・旧引田町)
続日本100名城に指定されている引田城
2020年12月16日

引田城は、東かがわ市引田の北側に岬状に突き出した城山(標高82m)の山頂に築かれています。
引田城の起源は遠く、天智天皇の6年(667)11月屋島築城のとき、阿倍比羅夫率いる引田氏によって築城されたものであるとも云われ、また、屋島城(軍団)との連絡のために出来た「狼火台」として造られたのが城のはじまりになったとも云われています。
文献史料上、引田城に関わる記述が見えるのは、江戸時代編纂の軍記物語「南海通記」にあるのが初見です。戦国時代には阿波三好氏との攻防があり、引田城の城主は四宮氏、矢野氏など何度も変わりました。
戦国時代の終わりごろの天正15年(1587)に、播磨国赤穂(兵庫県赤穂市)から豊臣秀吉の家臣である生駒親正が讃岐国を治めることとなりました。生駒氏は讃岐国支配の拠点とする高松城と平行して、慶長年間(1569〜1615)に西讃地方の支城として丸亀城、東讃地方の支城として引田城を築きました。
この城が内海の要塞として代々の城主四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していきましたが、元和元(1615)年の一国一城令により廃城となり、今は山上に石垣・土塁そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模は不明です。
現在の引田城址には、生駒氏が築いた自然石を積んだ野面積の石垣が残っているほか、建物の礎石やたくさんの瓦が見つかっています。この技術は、織田信長の安土城築城から始まり、信長・秀吉方勢力によって築かれた、織豊系城郭と呼ばれるものの特徴です。
高松城や丸亀城は城主が変わったことや市街地の開発のため改変されていますが、引田城址には築城時の石垣が残っており、石垣の年代の指標と成りうる貴重な城跡と評価できます。
西櫓跡と言われている所で方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡がありますが、これは大正12(1923)年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により展望台道路の整備等をなし現状が一部変更されています。
魚の神付近に天主台、更にその先に南櫓跡の石垣が残っていますが、近年崩れ落ちた箇所も多くこの付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用として崩され利用されました。天主台等の建造物については瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられています。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(177番)に選定され、令和2(2020)年3月10日、国の史跡に指定されました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R2.10.31
住所: 香川県東かがわ市引田
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