中久喜城(小山市)
小山氏城跡として国の史跡に指定されている中久喜城
2023年01月16日

中久喜城は、小山市大字中久喜に所在する中世の城郭で、西仁連川と谷戸田(低湿地)に挟まれた台地の先端部に位置します。
城跡の範囲は、東西約400m、南北約450mで、城は、JR水戸線によって分断されていますが、北側の住宅部分を除いて、遺構は良く残っています。
城はこれらの遺構から、三つの曲輪によって構成されていたと考えられます。
曲輪I(本丸)は、周囲を二重の土塁と空堀で囲み、南側には桝形虎口(出入口)が設けられています。曲輪内には「城ノ内」の地名が残り、本丸にあたると思われます。
また、「西城」の地名のある曲輪Ⅱは、南西角から北に向かって土塁が見られます。曲輪中央には、南北に延びる道に沿って屋敷が並んでいたことが想定されています。
曲輪Ⅲには、土塁などは認められませんが、「万年寺」の地名が残されています。戦国時代に当地より移転したと伝えられる小山氏の菩提寺万年寺(本郷町)との関りが推測されます。
この中久喜城の築城年代は不明です。14世紀後半に関東地方を揺るがした11代当主小山義政の乱のさい、義政が鎌倉府と戦うための根拠地とした城の一つである「岩壺城」ではないかといわれています。
その後、天正18(1590)年に、小山高朝の子で結城政勝の養子となった結城晴朝が隠居して「中久喜栃とち井い城」に移ったことが「結城御代記」(1852年成立)にみえ、この城は「栃井城」とも呼ばれていたようです。
中久喜城は、祇園城と結城城の中間に位置します。初代当主小山政光を共通の祖とする小山・結城の両氏を結びつける重要な役割をになった城であったことがうかがえます。
しかし、慶長6(1601)年に、結城氏が越前に転封になると、廃城となりました。
中久喜城跡は祇園城(小山城)跡・鷲城跡とともに「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」として、国の史跡に指定されています。平成3(1991)年3月12日、鷲城跡と祇園城跡が「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡」として国の史跡に指定されました。その時は祇園城跡の南久保曲輪の土塁の一部、また、鷲城跡の本丸の一部が未指定であったため平成13(2001)年8月7日、両城跡の未指定部分を追加するとともに、あらたに中久喜城跡を追加指定して、史跡指定名称を「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡 中久喜城跡」に改めました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R4.12.27
住所: 栃木県小山市中久喜
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