芝生城(三好市〔旧三野町〕)
三好長慶公 生誕之地・芝生城
2024年10月25日
芝生城(しぼうじょう)は三好氏の居城です。
清和源氏小笠原氏の小笠原長清が承久の変(1211)の後に阿波守護に補任されてから7代後の寛正年間(1465年ごろ)小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改めここを居城とし、三好氏の家祖となったといわれています。以後、2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長、6代長慶で、芝生城は三好氏の本拠地となりました。
三好長慶は、大永2(1522)年2月13日芝生城において産声を挙げました。
長慶を身籠もった母は、吉野川の清流で水ごりをとり、「天晴れ、英雄英傑を生ませ給え」と念じたという。
天文元(1532)年堺から帰国していた長慶は、父の戦死後奮起し、翌年12歳を以て芝生城を出陣、勝瑞城(藍住町)を経て、再び畿内に進出しました。折しも抗争中の管領細川晴元と、一向宗本願寺光教の和議を調停するなど軍功を挙げながら一進一退を重ねましたが、天文19(1550)年ついに京の都を征覇し、最高実力者の座を掌中に収めるに至りました。
一方、乱世の教養人としての長慶は、茶道や連歌の分野にも長じ、凡そ権謀術数には縁遠い側面も持ち合わせていました。京畿一円と、中・四国の9か国を支配する天下人にまで出世した長慶ですが、永禄7(1564)7年月4日、不運にも河内国飯盛城で病死しました。享年43歳でした。
その後、天正年間(1575年ごろ)に勝瑞城主三好長治滞城の伝承もあり、正確な芝生城廃城の時期は不詳ですが、少なくとも長慶病没までの凡そ100年間芝生城は三好一族の拠城であったとおもわれます。
城下は芝生上の河岸段丘全域に広がる約100町歩(ヘクタール)に及び、周辺を断崖と空堀に囲まれた城跡のここ殿屋敷は凡そ2町歩を擁する要害、景観の地でもあります。
城址は江戸時代後期の文化文政(1802~1827年)に至って開削導水された「三村用水」の恩恵に浴して以来、農民が待ち望んだ黄金の稲穂が波打つ田園地帯に変貌しました。
(現地説明板などより)
城跡は残っていませんが、説明看板があります。また、令和元(2019)年7月28日、三好長慶公生誕の地碑が建立されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.9.28
住所: 徳島県三好市三野町芝生
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